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modern chinese economy
コラム:中ソ蜜月時代から中ソ大亀裂へ−その深層底流
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


 蒋介石政権を台湾に追い出し、外国諸列強を一掃し、1949年10月中華人民共和国政府樹立を宣言したばかりの毛沢東は、その勝利のうちに中国共産党の戦略と自らの指導力にゆるぎない自信をもっていたでしょう。しかし、内戦で荒廃し、工業力といえば沿海部と東北のわずかな地に限定され、旱魃・洪水・砂漠など自然に振りまわされる農村地主経済が支配する途方もなく広大な国土で、引き継いだ4億5千万の人口を飢えさせることなく、国家と経済を経営していかなければなりませんでした。土地革命を核として「農村が都市を包囲する」戦略で勝利した指導者たちは、農村には自信があったとしても都市と工業の経験はないに等しかったのです。しかも、台湾海峡と朝鮮半島の緊張に対処しながら。

 このような事情から、早くも建国直後の49年12月に毛沢東自身がモスクワを訪問し、翌年3月には「中ソ友好同盟相互援助条約」が締結されました。朝鮮戦争を経て世界の冷戦構造が定着すると、中国は一気に社会主義化を進めることになりますが、その開始を宣言する「第1次五ヵ年計画」は中心プロジェクトをソ連の資金と技術に依存するものでした。社会主義というと、国有企業と農業の集団化、国防と直結する重工業優先発展路線です。「ソ連の経験に学べ」、「兄貴に学べ」というスローガンのもと、大量の留学生がソ連に派遣され、ソ連からは技術者が送られてきました。今でも北京や上海にはモスクワと見まがう巨大建築物や、当時のソ連技術者たちの宿舎がホテルなどに転用されているのを見ることができます。困るのは何でもソ連式で、トイレの位置が高く小便さえ一苦労です。そのやりきれない不便さとともに「向ソ一辺倒」というスローガンに象徴される蜜月ぶりが思い起こされるというわけです。

 しかし、その蜜月にも実は裏がありました。「中ソ友好同盟相互援助条約」の締結交渉にのぞんだ毛沢東が3ヶ月もモスクワに滞在したのは、中国を属国のように見下したスターリンの態度と大国主義的な要求に、毛沢東がへそをまげて雲隠れしてしまったからなのです。そもそも、「都市労働者の蜂起と権力の奪取そして国有化」を革命の旨とするスターリンは、一貫して「農村が都市を包囲する」革命戦略を進めた毛沢東と中国共産党とをバカにしていました。蒋介石政権は南京を追われて広東にたどり着き、そこから台湾へと逃げ延びるのですが、驚いたことに当時のソ連大使ロシュチンは広東まで蒋介石と行を共にしていたため、中華人民共和国建国式典には間に合わなかったというウソのようなホントのような話があります。

 ソ連がもっていた、中国東北部や新疆におけるロシア帝国以来の特権、極東の不凍港旅順・大連港の使用権、長春鉄道の使用権を放棄したのは、スターリンの死後、フルシチョフが政権についてからです。これは、ソ連が中国を一人前の国扱いをし始めたということではあるのですが、皮肉なことに、そのフルシチョフ時代になってから中ソの亀裂は、ソ連技術者の総引き揚げ(1959年)、黒竜江(アムール河)流域での軍事衝突(1969年)へと拡大の一途をたどり、全面戦争さえ懸念される極めて深刻な事態になりました。

 現代史を彩る中ソ関係のギクシャクには、指導者たちの強烈な個性という深層底流を見ないわけにはいかないということでしょう。

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