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modern chinese economy
コラム:狂気のエネルギー−大躍進運動
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


 中国が共産党をはじめとする諸党派よる連合政権として建国されながら、1953年をもって共産党独裁型社会主義政権に移行した理由は、朝鮮戦争のせいかもしれません。中国も50万人の兵士を失い、近代戦争の恐怖を味わうと同時に、アメリカは手ごわく、敵にまわすと大変だと悟ったと思います。以後、改革・開放まで国防強化と重化学工業化はどんなに政情が揺れても手放しませんでした。ですから、スターリンとソ連の大ロシア主義がいかに鼻持ちならないものであろうとも「向ソ一辺倒」政策を取らざるをえなかったのです。初めて土地を手にした農家が徐々に豊かになり、その果実が財政収入となり、それを資金源に徐々に工業化を進めるなどという悠長なことは言っておれない、これが当時の指導者たちの偽らざる心情だったでしょう。「向ソ一辺倒」といっても全てをソ連に委ねるわけにもいきません。何しろ相手は熊なのですから。

 せっかく土地を手にした農民から土地を取り上げ、集団化が始まりました。農村の余裕資金は全部国庫に吸い上げ、巨大な工業化計画に着手したのです。農村は自力更生で援助はなく、全ての果実が工業と都市に投入されたのです。工業化のスタートは表面的には成功したかにみえ、国産自動車が走り始めましたし、製鉄・機械産業も稼動しました。これは、農業が豊作であった限りはよかったのですが、中国の農業は技術がほとんどなく、自然に対する抵抗力がありません。そこで、1956年に凶作年がくると、驚くほどの激しさで問題が噴出しました。工業化は都市人口を膨張させますが、食糧供給が逼迫しました。輸出の担い手であった、農産原料に依存する軽工業が行き詰りました。集団化した農村では凶作地からの農民の逃亡離散が始まりました。つまり、工業化が農業の水準に左右されることがはっきりしてきたのです。しかも、これまでの工業化方式では農業改善の手立てがなかったのです。

 おりしも、百家斉放・百家争鳴が提唱されたときで、知識人を主に一党独裁の批判が巻き起こりましたが、共産党にとってそれよりはるかに深刻な批判が中国革命の温床である農村から巻き起こってきたのです。「都市労働者は農民が1年かけて得る収入をわずか一ヶ月で得る」、「共産党は都市に入って農村のことを忘れ去った」。おそらく、経済に関心のなかった毛沢東が経済問題に真剣に立ち向かったのはこのときが初めてではないでしょうか。毛沢東は必死で農民を説得しました。「農村では現金は都市ほど必要ではない・・・、国防・重工業は中国の死命を制する」。

 心底幻滅した農民のなかには、国を頼れないなら自分達でやると、凶作地帯を中心に、農業にとって重要な生産投資である水利灌漑工事を自分たちの無償労働で始めるものが現れました。飢餓かそれとも前進かの選択ですので、猛烈なエネルギーです。毛沢東と指導者はこのエネルギーに幻惑されてしまいました。今度は、「全国はこれに学べ」と号令をかけたのです。大躍進の開始となりました。計画などくそ食らえ。農業集団はもっと大量に人々を動員できる巨大な人民公社へ。何億という労働力が農地をほったらかして、水利工事へ、さらに土法製鉄に、農具生産へと繰り出しました。技術が低い農業はそれだけ人手を要します。当時の中国では農繁期には農村労働力の90%以上を投入しなければ農業は成り立ちません。大躍進は、数千万人の餓死者を出して崩壊しました。これは、天災ではなく人災でありました。

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