human and environment
はじめに
- 環境と文学 -  (米の環境と文化) 高阪 薫

 人間は、この地球上において少しでも便利で快適な生活環境を作りあげようとし、そのため科学技術の振興に力を注ぎ物質文明を築いてきた。しかし、便利で快適な生活環境を与えてくれる筈であった現代文明は、「人間中心主義」の文明に陥り、大規模な地球環境の破壊をもたらし、人間の生存基盤そのものを揺るがすことになった。たしかに科学技術の発展は機械化を促進し、生活の合理化と物質的豊かさをもたらし、人間の生活環境を豊かにした。しかし、自然と人間が融合して作った地域固有の生活文明が非合理として排除され、人工的文明の機能的な制度化された都市社会に馴致するにつれ、人間の内面はすさんできて、精神の荒廃と貧困がはびこってきた。このような現象は、人間が21世紀において生物として生存可能かどうかという切実な問題を抱えると共に、現代の物質文明や精神文化のありかた自体に反省を迫っている。

 そして現にいまも人間世界では、進歩発展史観が是とされ、文明という名の破壊、文明という名の戦争、文化という名の強制、文化という名の抑圧が地球上の歴史で展開されている。人類はまるで地球を蝕み壊すために生存しているかのようだ。それは人類の発展と繁栄という大義のもとに、自然を壊し、人種間、民族間の争いを正当化する過程でなされてきた。この人類中心、人間中心の考え方、生き方が、いま地球を駄目にし、生態系を破壊し、環境悪化の速度を速めている。そして現代人が是認し、享受しているヒューマニズム、デモクラシーの思想も、ひょっとして自然と動植物を犠牲にした自分達だけの合理的な生きるための便法ではないのか。特に近代は自由と民主主義の名のもとに、愚かな戦争を繰り返し人類は多くの血を流した。その巻き添えをくらって自然は破壊された。戦争は最大の地球環境公害であった。本来人間同士が仲良く共存することで、自然との共存もうまくいくのである。それが憎しみ合っていたのでは自然との関係もうまくはいかない。まず人間同士が、差別、偏見、憎悪を超えて相手を思いやり戦いをやめて、そして自然と共存していく方向を見出さないと人類の未来はあり得まい。いま、地球環境問題は、依るところは人間の心の環境問題にあるのである。それをなにより上位において考え、この地球上の生物が自然の摂理に従って互いに生きていくために、人類が舵取りをしながら、人間一人一人の生き方考え方の意識改革がなされねばならないだろう。いやかつての自然と共存しあうあり方、生き方の知恵を思い出し、今からでも遅くはない、改めるべきは改めて過去の知恵を取り入れ生かさねばなるまい。地球生存と人類生存の危機がかかっているのである。

 いまそれを救うのは、既存の倫理的モラルでは駄目なのであり、あたらしいエコソフィアの立場に立つ環境倫理の思想構築が必要とされるのである。さらに、人間の精神的、倫理的面での環境を充実することであり、地球環境の総合的な考察を通して、新しいエコライフの思想の確立とその実践を志向していくことでしかない。

 私の環境学のコースでは、自然・社会環境の中で生きる人間が、人間環境の中で形成してきた精神文化について考え、その観点から人間の心と環境の関係のあり方を学ぶ。

 そこで、米・稲作に関して日本人はどのように関わり、どのように考えてきたか、日本人の生命・健康・精神に関わる食べ物=米に関して、環境学的観点から現状把握、歴史認識、文学鑑賞等を通じて考察したい。具体的には、エコライフの実践として米作りを試みること。一方文献で稲作の歴史、稲作文化の内実を知ること。この体験と歴史・文献とに学びながら、お米(稲作全般)が及ぼす日本人の心(精神)への影響、精神の形成、その表現を通して文学(芸術美)の形成と継承を、例をあげて論証し、環境と文学−米の環境と精神形成−の問題を考えてみたい。そして今日、米の環境と現実は、人間の心と身体の環境にどのように浸透し、どんな問題が生じているか、環境にやさしい有機農業を例に取り上げて考えてみたい。

 ここでは、その一例として有機農法による稲作の体験を通じて、自然環境と人間の生きていく営為とがどう関係しているかを、実践を通じて学んでみたい。その体験と稲作数千年の歴史を有する日本の文学(言語記録)が、稲作をどのように捉え、どう関係してきたかを探り、比較検証をする。そして現代流の慣行農法も視野に入れ、エコライフの立場から、改めて日本人の人生観、美意識とはどのようであったかを省察し、心の形成、心の環境のあり方を見つめていく。