human and environment
3-1. 「古事記」「風土記」「万葉集」「琉球国由来記」
   にみる稲作の起源と労働と環境と階級分化の問題
- 環境と文学 -  高阪 薫

 古典には稲作とその労働はどのように表れているか、その事例を「万葉集」「風土記」「古事記」「枕草子」等から引用してみよう。そしてそこに見る稲作と稲作労働がどのように描写され、美的表現に工夫を凝らしているかをみてみたい。心の豊かさに関わってきた文芸が、その美を追究するときに、なにを捉え、なにを見落としてきたか、それを現代的なエコライフのあり方から問い直してみたい。
 日本文学にみる米の描写、表現を探り出し、心の美しい豊かな環境や日本人の精神文化をいかに形成してきたかを、究明するのである。

まず、日本の古典文学に、米や稲作がどのように記されているか見てみよう。

 「古事記」や「日本書紀」の神話篇には、神々の誕生を記述しているが、そのなかでも重要なのは、伊耶那岐命と伊耶那美命との兄妹結婚による国生みの話である。

 国生みの関わる中で穀物をつかさどる神が生じている。「御合して生みませる子は、淡道之穂之狭別島。次に伊予之二名島を生みましき。此の島は身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故伊予国は愛比売と謂ひ、讃岐国を飯依比古と謂ひ、粟国は大宜都比売と謂ひ、土佐国は建依別と謂ふ。」とある。

- 訳 -
 このように唱え終わって結婚され、その間に生まれた最初の子は淡道之穂之狭別島(淡路島)であった。次に伊予之二名島(四国)を生んだ。この島の身体は一つだが、顔は四つあった。またそれぞれの顔に名がついていた。そういうわけで、その顔の一つの伊予国を姉姫の意で愛比売とといい、讃岐国を食物の霊の依りつくという意の飯依比古といい、阿波国を穀物をつかさどるという意で大宜都比売といい、土佐国を強健な霊の依りつくという意の建依別という。

 ここに、まず食物に関する神、島を記述している。

 穀物に関する神々は、他にウカノミタマ、ウケモチノカミ、オホトシノカミ、ミトシノカミがいる。ウカノミタマは宇迦之御魂神或いは倉稲魂命と書かれ、穀米、稲魂を意味していた。豊葦原瑞穂国とは「古事記」に記された日本の別称であるが、葦原での水田耕作が八世紀以前にやられていたことを意味している。実際はさらに数千年前からと言われる。

また、米に関する記述は、新嘗・大嘗−神々の代の項に、神界における大嘗祭の記述がある。

 「勝さびに、天照大御神の営田の阿を離ち、其の溝を埋め、亦其の大嘗を聞し看す殿に屎まり散らしき。故、然為れども天照大御神はとがめずて告りたまはく、『屎如すは酔ひて吐き散らすとこそ我がなせの命如此為つらめ。又田の阿を離ち溝を埋むるは、地をあたらしとこそ我がなせの命如此為つらめ』と詔り直したまへども、猶其の悪しき態止まずて転ありき。」とある。

- 訳 -
 その勝ちに乗じて荒々しくふるまい、天照大御神が耕作する田の畔を壊したり、その灌漑用の溝を埋め、また大御神が新米を召し上がる神殿に大便をまき散らしたりした。このような乱暴をはたらいたけれども、天照大御神はその行為をとがめないで仰せられたることには、「大便のように見えるのは、酒に酔ってへどを吐き散らそうとして、わがいとしい弟はこんなことをしたのでしょう。又田の畔を壊したり、溝を埋めたりするのは、耕せば田となるのに畔などにしておくのは土地が惜しいと思って、わがいとしい弟はこんなことをしたのでしょう」とすべて善意に解釈したけれど、須佐之男命の悪さは止まる事はなかった。

そして、神話伝承の世界における米の始まりはどのように記されているかというと、

五穀の始まり、稲穂・粟など

 「又食物を大気都比売神に乞ひたまひき。爾に大気都比売、鼻・口及尻より種々の味物を取り出して、種々作り具えて進る時、速須佐之男命、其の態を立ち伺ひて、穢汚為て奉進ると、乃ち其の大宜津比売神を殺したまひき。故、殺さえし神の身に生れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。故、是に神産巣日の御祖命、これを取らしめて種と成したまひき。」とある。

- 訳 -
 さて話かわって、須佐之男命は食物を大宜津比売神に所望された。そして大宜津比売がその鼻や口また尻からいろいろなご馳走を取り出して、さまざまに料理しととのえ、速須佐之男命に差し上げる時に、須佐之男命は、その仕業をのぞき見して、食物を汚くして自分に差し出すのだと思って、即座にその大宜津比売神を殺してしまわれた。こうして殺された神の身体から生まれた物は、頭には蚕が生まれ、二つ目には稲種が生まれ、二つ耳には粟が生まれ、鼻には小豆が生まれ、陰部には麦が生まれ、尻には大豆が生まれた。こうしたことがあって、神産巣日の御母神は、これらの穀物をお取らせになって種とした。

そして、神の世界から人間界に米が伝わるのはどのような形であるかは、次のように記されている。

 父に代わって子が天降りする。いわゆる天孫降臨ということである。  大国主神の国譲りが済むと、次に葦原中国の統治が当然問題になる。天照大御神と高御産巣日神の詔命で、日継の御子の天之忍穂耳命が統治者として天降りすることになるが、その準備中に邇邇芸命が生まれたので、父に代わって邇邇芸命に降臨の神勅がおりる。父を子に代えるのは、天降りする神は新生して祖霊を継承するという宗教観念の現れであろう。特にこの父子の神は稲霊としての神格をもっているので、ここには古い稲霊が新しい生命力をもった稲霊に生まれ変わるという観念が示されている。

*参考
 以下は天孫降臨の神勅であるが、神代紀の一書には、天照大神の神勅として、「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫就でまして治せ。さきくませ。宝祚の降えまさむこと、当に天壌戸窮り無けむ」とある。
 稲と祭祀儀礼(即位)との最初に関わる邇邇芸命の降臨時の様子。

*邇邇芸命の天孫降臨
 爾に天照大御神・高木神の命以ちて、太子正勝吾勝々速日天忍穂耳命に詔りたまはく、「今、葦原中国を平らげ訖へぬと白せり。日子番能邇々芸命に詔を科せて、「此の豊葦原水穂国は、汝知らさむ国と言依さし賜ふ。故命の随に天降りますべし」とのりたまひき。

- 訳 -
 そこで天照大御神と高木神(高御産巣日神)の仰せで、日継の御子の正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命に、「今、葦原中国をすっかり平定したとの復命があった。
 邇邇芸命に神勅を下されて、「この豊葦原水穂国は、おまえが治める国であると委任するのである。よって命令のとおりに天降りなされよ」と仰せつけられた。
 このように、日本の神話伝承の世界では食物の神が重視され、なかでもお米が神の世界でも人間界でもまつりごとの出発点であり、中心になっている。

以上『古事記』より

 「風土記」などでは、地域ごとに米の伝承が異なっている。日本の古代社会がそれぞれ の神話伝承を持っていたことを示すものである。それを紹介しよう。

*稲穂を投げ散らす
 ここに、土蜘蛛、名を大くわ・子くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。困りて高千穂の二上の峯と日ひき。後の人、改めて智鋪とたづく。
『日向国風土記逸文』より

『常陸国風土記』より現代語訳。新嘗祭=ニヒナメ=贄の忌み−穀霊信仰と始祖信仰
 (常陸国筑波部)土地の老人がいうところによれば、昔、われわれの祖先の神が、あちらこちらの土地の神々のもとを巡りお歩きになって、たまたま駿河国の富士岳にお着きになり、とうとう夕暮れに出会ってしまい、一夜泊めてくれるように山の神にお願いになった。ところが、この時富士の神は答えて、「今夜はちようど初穂を神に捧げる初嘗の祭りをしていて、家中が物忌みの最中です。今日のところは、あなたさまのご希望に応ずることはできないでしょう。どうぞお許し下さい」と申し上げた。そこで祖先の神は、そのことばを恨んで泣き、富士の神をののしって、「いやしくも私はおまえの親だ。なのに、どうして私に宿を貸そうとは思わないのか。そういうことならば、おまえが今住んでいるこの山は、おまえの命のある限り、冬も夏も雲が降り霜がおりて、厳しい寒さがしきりに襲い、人々も登らず以後決して飲食物を供えて、祭ってはならないと思え」と仰せられた。さらに祖先の神は筑波岳にお登りになって、同じように今宵の宿を乞われた。この時、筑波の神は快く答えて、「実は今夜は新嘗の祭を行っているところでございますが、どんなに無理をしてでも、せっかくの仰せに従い申さぬということはございますまい」と申し上 げた。そして飲食物をとりそろえ、丁重に敬意を表し、謹んで祖先の神にお仕え申した。それを見て、祖先の神はすっかり喜び、歌をお唱えになって、
 愛しきかも我が胤・・・(いとしいわが子よ。高くそびえる立派なこの山の神殿よ。永遠に栄える天地と同じく、日や月の照る限り、人民はいつまでもこの山に集まり、山の神をたたえ、供える飲食物も豊かに、いつ世までも絶えることなく、日一日といよいよ栄えて、長い年月ののちまで、この山遊びの行事は続くであろう)。
 このことがあったので、以後富士岳は、いつも雪が降り積もって登ることができない。それに対して、かの筑波岳は、いつも人々が山の神を慕って集まり、歌い、かつ舞い、酒を飲んだり食物を食べたりして祝う行事が、今まで続いているのである。

 この頃、というより歴史的に六、七百年の差があるとされる沖縄古代社会ではどういう稲作をしていたのであろうか。稲作北上説の伝播でいえば、稲作の伝わり方は沖縄の方が早いが、いまのところ稲作北上説も真説とはいえない。今後の研究が待たれる。『琉球国由来記』巻二十一。八重山のシキヨマの祭=シイクマ=セ=セジ(稜威)=ケ  オ=ゲ=ケ=気=食。 シイクマ=稲霊を込める祭。  四月ニ穂ノ物忌之事。  由来。萬作物、穂見得ヘケレバ、蝗虫付不申タメ、村中一人モ不残、牛馬迄、濱下仕ル  五月ニシキヨマ祭之事  由来。稲刈始メテ、茹デ米仕リ、作物ノ初トテ、一人ニ五勺宛出合セ、嶽々并根所ヘ祭  リ、祖父母・伯叔父母・兄弟・姉妹、志次第送ル也

 「万葉集」には、直接稲作に関する表現をした歌は五十近く数えられる。それを内容に従って、どのような歌が謡われているか、五つに分類してみた。「万葉集」成立期の稲作は、多くは水田で一部直播きであった。男は二反、女はその三分の二反、奴婢はさらにその三分の二反を貸し与えられて、稲作に従事していた。当然田租(でんそ)として米の年貢を収めている。

★稲に関する歌の分類

  1. 叙景歌:稲田の風景、稲の生育を歌う。五首
  2. 儀礼(新嘗祭)プラス恋の歌:神に新米を供える儀式、新嘗の御籠り。二プラス六首
  3. 労働歌:重労働の嘆き苦痛、半年間雨風日照り、鳥虫雑草から守る。奴婢の重労働、田租の苦痛、八首
  4. 相聞(恋愛)歌・比喩的表現:穂向きの寄れる=君に寄る、片寄る。稲刈り前後仮庵にすむ苦痛。二十首
  5. 長歌(雨乞い):旱魃続きに雨乞いをする。祈りの歌。



新嘗の籠もり
 にほ島の 葛飾早稲を にへすとも そのかなしきを 外に立てめやも

- 訳 -
(にほ鳥)の葛飾早稲を捧げて済み籠もる晩でも、あの愛しい人を外に待たせておこうか
一般に神を祀る女は未婚、特に新嘗の夜は娘一人残って物忌みし、神の訪れを待ち、家族は近づけない。



誰そこの 屋の戸押そぶる 新嘗に 我が背を遣りて 斎ふこの戸を

- 訳 -
誰ですか、この家の戸を揺するのは 新嘗に夫を送り出して忌みこもるこの家の戸を主婦が夫を送り出して忌みこもっている。
稲に寄せた恋愛の比喩
但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思ひて作らす歌一首



秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも

- 訳 -
秋の田の 稲穂がなびいている そのように ひたむきにあなたに寄り添いたい 噂はひどくても(三角関係を謡う)



・水田に寄する 八首

1、住吉の 崖を田に墾り 蒔きし稲 かくて刈るまで 逢はぬ君かも

- 訳 -
住吉の 崖を耕して田にし 蒔いた稲を こう刈り取るまでも 逢わない君よ



2、太刀の後 玉まき田居に 何時までか 妹を相見ず 家恋ひ居らむ

- 訳 -
(太刀の後)玉まきの田んぼに いつごろまで 妻にも逢わずに 家を恋しく思うことだろうか



3、秋の田の 穂の上に置ける 白露の 消ぬべくも我は 思ほゆるかも

- 訳 -
秋の田の 穂の上に置いた 白露のように 消え入るばかりにわたしは 思われることだ



4、秋の田の穂向きの寄れる 片寄りに 我は物思う つれなきものを

- 訳 -
秋の田の 穂先が一方に片寄ったいるように ひたむきに わたしは物思いする 思ってもらえないのに



5、秋田刈る 仮庵作り 庵りして あるらむ君を 見むよしもがも

- 訳 -
秋の田を刈る仮庵を作って 小屋暮らしをしているという君に逢う術があればいい



6、鶴が音の 聞こゆる田居に 庵りして 我旅なりと 妹に告げこそ

- 訳 -
鶴の声が聞こえる田んぼに小屋がけして私は泊まっていると 妻につげておくれ



7、春霞 たなびく田居に 庵つきて 秋田刈るまで 思はしむらく

- 訳 -
春霞のたなびく田んぼに小屋を建てて 秋の田を刈る頃まで思いつづけさせることよ



8、橘を 守部の里の 門田早稲 刈る時過ぎぬ 来じとすらしも

- 訳 -
守部の里の門田早稲を刈る時期が過ぎた 来ない気らしい



稲に寄せる労働の歌

春日すら 田に立ち疲る 君は哀しも 若草の 妻なき君は 田に立ち疲る

- 訳 -
春の日も 田に立ち疲れている あなたは気の毒だ (若草の)妻がないあなたは 田に立ちつかれている(独身の男がからかわれているか)



衣手に 水渋付くまで 植ゑし田を 引板我が延へ 守れる苦し

- 訳 -
衣の袖に 水渋がつくほど懸命に 植えた田を 鳴子を作って 番をするのは苦しい



秋田刈る 仮庵を作り 我が居れば 衣手寒く 露そ置きにける(作者不詳)

- 訳 -
秋の田の 仮庵を作って わたしがいると 袖も冷たく 露が置いている



稲の叙景歌(聖武天皇)
・秋の田の 穂田を雁がね 暗けくに 夜のほどろにも 鳴き渡るかも

- 訳 -
秋の田の 穂田を刈り−雁が 暗いうち 夜の明け方に 鳴き渡ることだ



 以上のそれぞれの歌にはその当時の上下身分に応じて、稲作に関わって、日常の労働の苦しみや、人生、恋愛の喜怒哀楽が端的に率直に表現されている。特に稲の収穫期の労働は苦しかったようで、農民もその点では疲れ苦しんでいたことがよくわかる。
 それを察知してか、作者不詳の「秋田刈る 仮庵を作り 我が居れば 衣手寒く 露そ置きにける」が、天皇の歌となって、いわば本歌取りとなって、天智天皇によって歌われている。しかも後に藤原定家の作った小倉百人一首の一番歌に載せられている。それはなぜか。

百人一首第一番
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ  天智天皇

- 訳 -
 秋の田のほとりに仮に作った小屋は屋根を葺く苫の編み目があらいので 田の番をして 夜寝泊まりをしている 着物の袖は冷たい露に濡れつづけている。



天皇自ら農耕をする。日本人の労働観を考える上で重要。垂範率先。御製ではない。定家が選んだ理由として考えられるのは、

  1. 稲穂の国の代表として、稲作儀礼や大嘗祭に関係するから。
  2. 天皇の農耕、垂範率先、稲作労働の讃歌。
  3. 和歌文芸隆盛の源流に、日本国の主食である米・稲作の歌が中心と考えられる。
    以上『万葉集』より