human and environment
3-2. 「枕草子」にみる「田植え」「ほととぎす」と
   美的理念の成立と階級分化の関係
- 環境と文学 -  高阪 薫

 さて、つぎに「枕草子」には稲作に関して、おもしろい記事がある。清少納言による十世紀末の随筆であるが貴族の生活の価値観を知る上で、また文芸の美的理念がどこにあるか、を考察する上で参考になる。そしてどういう環境に育ったからこう考えるのか、といった思考経路が形成される環境、心の環境はどうなっているのか、などいろいろ問題を提起してくれている。文芸とは真善美を追究する芸術でもある。特に美的表現をもって私達の心を感動させてくれたり、奮起させてくれたり、和ませ癒してくれたりする芸術である。「枕草子」は、「をかし」の美的理念があるとよく言われている。「をかし」とは、「枕草子」以外の平安時代の「和泉式部日記」「紫式部日記」にも文中多用されている。その意味はなかなか多様な拡がりがある。普通、h感賞=風情、快適、魅力、上品、優秀、i侮弄=思わず軽蔑の笑いをおぼえる。j滑稽=おかしくて笑いたくなる。k奇異=変だ、妙だ。などの意味を有するが、これらの意味は、それぞれ対象の状態に即してあらわれる。それは人の消息、人柄、態度、挙措、教養、容態、風景、季節、調度、言葉、音楽、絵画、筆跡、などなどを観察し、記述する際に作者の美的な価値判断がともなって褒貶のいずれかが判定されて書かれるのである。(「をかし」清水 文雄『日本文芸の美的理念』所収)

その時に、対象の美的価値を十分観照する境地がそなわっているかどうかといった作者の才能もそこにみせてくれる。「枕草子」は「をかし」の文学と言われるが、作者清少納言もこれらの才能や素養を持っていると言える。それだけ随筆として含蓄のあるおもしろい作品であるということだ。

 然るに、清少納言は、どんなところに「をかし」を感じたのか、その一、二例を稲作労働の描写から拾って解説してみよう。

 「枕草子」二四八段と二四九段には、田植えと稲刈りの稲作労働の描写がみられる。まず、「二四八段 賀茂へ詣づる道に」を紹介しよう。

 賀茂へ詣づる道に、女どもの、あたらしき折敷のやうなる物を笠に着て、いとおほく立てりて、歌をうたひ、起き伏すやうに見えて、ただ何すともなく、うしろざまに行くは、いかなるにかあらむ、をかしと見るほどに、郭公をいとなめくうたふ声ぞ心憂き。「郭公よ。おれよ。かやつよ。おれ鳴きてぞ、われは田に立つ」とうたふに、聞きも果てず。いかなりし人か、「いたく鳴きてぞ」と言ひけむ。仲忠が童生ひ言ひおとす人と、「鶯には郭公はおとれる」と言ふ人こそ、いとつらうにくけれ。鶯は夜鳴かぬ、いとわろし。すべて夜鳴くものはめでたし。 
ちともそはめでたからぬ

- 訳 - 加茂へ向かって参詣の途中で、女たちが、新しい折敷のような物を笠としてかぶって、たいへんたくさん立っていて、歌をうたい、起きたり伏したりするように見えて、ただ何をするということもなくて、後ろの方に行くのは、いったい何のためなのだろうか。おもしろいと見るうちに、郭公のことをひどくぶしつけにうたう声は不愉快だ。「郭公よ。きさまよ。きゃつよ。きさまが鳴くから、おれは田に立つ」と歌うので、しまいまでも聞かない。いったいどうした人が、「いたく鳴きてぞ」と歌によんだものだろう。仲忠の子ども時代の生い立ちを言いけなす人、「鶯には郭公は劣っているよ」と言う人こそは、ひどく情けなくにくらしい。鶯は夜鳴かないのが、ひどく劣っている。すべて、夜鳴くものはすばらしい。
 少しも、それはすばらしくないよ

 私たちは今日鶯(うぐいす)や、郭公(=不如帰=ほととぎす)が鳴くのを聞いてその涼やかな声に気分をよくするであろう。誰もがその鳴声をけなしたりはしないであろう。これは日本の風流を愛でる伝統の中で鳥の鳴声が美的に価値をもっているものとしてみなされているからである。まさに花鳥風月を愛でる日本文学の美の伝統だといってよい。しかしこの美の伝統はいつごろ形成されたのであろうか。少なくとも「枕草子」二四八段では、郭公をめぐって、清少納言と早乙女達の評価は異なり、その時点、平安時代の十世紀頃では郭公を愛でる日本人は貴族階層だけではないか、日本人共通の風流は感じられない。むしろ、ひとり清少納言が粋がっている風にみえる。詳しく内容を分析してみよう。



音声を再生できません
ほととぎす




音声を再生できません
うぐいす

 枕草子の二四八段、これは清少納言が賀茂の神社に参詣した時に出会った光景である。早乙女たちが歌をうたい前かがみになってバックしながら田植えをしている。彼女は「これは一体何のためなんだろうか、をかし」とみている。つまりバックする田植えスタイルをみておもしろいと記すのである。早乙女たちの田植え労働のバックスタイルが、奇妙でおかしいから「をかし」なのである.枕草子が「をかし」の文学といわれているが、早乙女の田植えスタイルを興味深げに観察している宮中に住む清少納言の、田植え仕事とは無縁の優雅な生活の一面をみるのである。それが「をかし」に現われている。しかも女たちが田植えしながら歌っている歌は郭公のことを大層悪く歌っているのである。すなわち「郭公よ。きさまよ。お前が早く鳴くからおれたちは田圃に立って働いている」と労働の苦痛を郭公にあてつけてけなしている歌なのである。これには清少納言も驚いて古来郭公の鳴声を古歌では褒めているのにどうして早乙女はくさすのかと不愉快に思っている。ここには同時代に生きていながら、郭公の鳴き声に苦痛を感じるのと、風情を感じるのと、大いなる相違がある。このことは、文字を持たず文芸に対して主体的に自覚しうる環境になかった多数の早乙女達がいたことを意味している。他方、長い期間貴族の掌中に温存されてきた和歌的伝統の美に乗っかって、文芸の世界に浸ってきた宮中の女房たちがいたのである。そういう文芸的な環境が郭公の鳴き声一つとっても理解度の落差が大きかったのである。

 中世から近世にかけての田植歌には「ほととぎす」=「時鳥」がよく謡われている。今日伝承された唯一の組織的な田植歌である『田植草紙』系歌謡に、その重要な主題として時鳥があるが、それに共通する歌が「枕草子」から中世・近世の田植歌に謡いつながれているということである。(渡部昭五著『田植歌謡と儀礼の研究』)。また、「時鳥は、『幣(しで)の田長』の異名の如く、神の仲介者としての鳥である。田植が、重要な農業の折目となって以降、暦の読めない時代に、田植の終業を稔りの神に代って告知した鳥として、信仰され、ひいてはこの鳥が鳴くと、稲が稔るという勧農の鳥としての信仰を、長くその性格に具えてきたのである。田植歌謡の重要な主題として、謡い継がれたことも諾なえる」と前掲書で述べている。

 とすると、農民にとっても、告知の鳥、勧農の鳥として民俗的には有り難い鳥として、感謝されねばならない鳥ということになる。ところが「ほととぎす、おれ、かやつよ、おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」と、怒り、ほととぎすに不満なのである。後代には、確かに『田植草紙』の重要な主題である節季告知の時鳥ではある。しかし「枕草子」の早乙女には、朝早くからしんどい労働を強いられ、憎い鳥としてしか捉えられていない。後には時鳥が賞賛される鳥として評価が定着するにせよ、その時の早乙女たちにとっては「こんちくしょう!」と感じているのである。

 即ち、所与の豊かな条件に育った心の豊かな環境と、所与の貧しい、欠乏した条件に育った者の心の貧しい環境が、美を形成する文芸的な環境の差異を作りだしていることがわかる。文字を知り、専有する階層がつくる記載文芸しか後世に伝わらないし、彼らの文芸伝統の中で郭公の類聚歌が多数生じていくと洗練されてますます美的伝統を形成していくのである。

 しかし、郭公の鳴き声が風情のあるもの、美声に聞こえるものと権威付けられることはない。奇しくも清少納言が田植えを目撃し、貶したとはいえ、早乙女たちの口承歌としての田植え歌の俗謡を辛うじて記載していることは注目に値する。「郭公よ、きさまよ、お前が早く鳴くからおれたちは田圃に立つ」と言葉づかいも下卑ているし、しんどい田植え仕事を紛らわすために歌っているのであろう。郭公の鳴き声が苦しい労働を連想させる、そんな歌が有るということが、清少納言の記述でわかってその点は評価しなければなるまい。郭公を貶すことで早乙女は慰められているのかもしれないのである。ここに所与の貧しい条件に育ちながら、知らぬまに出来た口承歌を貧しい歌であるかもしれないが、歌いあって立派に心の慰めにしているのである。負から生じる美的作用もあろう。
 無論、彼女には早乙女の現実の苦しい田植えの仕事は理解されず、風流の美的世界におかれた郭公のイメージで早乙女たちの郭公を貶す田植え歌をけなしている。勿論、文芸の世界だけで美意識の相違が生じたのではない。その背後には、身分階層の分化によって、食べる側の人と大多数の作る側の人とにわかれ、結局余裕があって田植え労働をしない貴族たちが、風流を味わい美的風流を作り出す。美的理念などは貴族たちの優雅な生活の上に成立して記載文芸として残されていくのである。

 現代の都市生活者の中には、この「枕草子」のように郭公を愛でる階層は圧倒的に多く、郭公をけなした早乙女たちの田植え労働の苦しさに与するものはいないであろう。つまり近代はすべて多くの人が、機械化と合理化による大量生産システムによって苦しい労働から開放され、二重に腰の曲がった農民も少なくなり、余裕の時間が持てるようになった。これは平安貴族と同じ優雅な立場にたったといえよう。そのことは、日本の美的伝統を創造し、継承していくうえで、心の豊かな環境を一にしたことで、誠に結構なことであり、望ましいことであろう。しかし今日圧倒的に多くなった優雅な食べる人の側と、農業人口が一五%を割った作る人の側の分化が、経済格差は縮まったものの新たな二極構造の中で新たな環境破壊を起こす農業公害問題が生じている。また社会的精神的文化的にアンバランスな問題を生み出している。都会化(機械的合理的文明化)と貴族化(モノ・カネ贅沢化)が進むなかで、地域の農民文化の衰退は著しく(特に高度成長期とバブル期)地域的な民俗的な祭りや儀礼が(勿論稲作に関する儀礼等)が無くなってきている。最も最近地域文化振興の掛け声があがり、少しはましになってきているが、日本国民の総中上流化は同時に一億総貴族化となって、貴族趣味的な文化、美的価値観(ブランド志向等)が流行している。日本文学の現代の流れもその傾向を反映している。心の豊かな環境は、かつてない状況にありながらいまだ不足をいって、物質文明の謳歌をもう一度ねらっているのではないかと思われる。資源には限りがあるのに、人々の不足には限りがない。繁栄を享受することはもはや難しい時代に来ていることを、常々考えさせられるのである。日本人は優雅な生活を謳歌することで、かつて負の生き方にみられる負の俗謡でうさ晴らしをし、慰められてきたことの意義も見直さなければなるまい。

 さて、さらに続けて二四九段では、稲刈りの風景に大層心にしみて感じ入っている清少納言の感想が書かれている。

二四九 八月つごもりに、太泰に詣づとて
 八月つごもりに、太泰に詣づとて、穂に出でたる田に、人いとおほくてさわぐ。稲刈るなりけり。「さ苗取りし、いつの間に」とは、まことげにさいつごろ、賀茂に詣づとて見しが、あはれにもなりけるかな。これは女もまじらず、男の片手に、いとあかき稲の本は青きを刈り持ちて、刀か何にかあらむ、本を切るさまのやすげにめでたきことに、いとせまほしく見ゆるや。いかでさすらむ、穂を上にて、並みをる、いとをかしう見ゆ。いほのさまことなり。

- 訳 -
 八月末に、太泰に参詣するということで外出した。穂が出ている田に、人がたいへんたくさんいてさわぐ。穂を刈るのであった。「さ苗取りし、いつの間に」と歌にあるのは、ほんとうになるほど、先だって、加茂に参詣するとて道で見たそのさ苗が、いつのまにかしみじみと心にしみて感じられる風情にもなってしまっていたのだったよ。この場合は女性もまじってはいず、男が片手に、とても赤い稲で、根もとは青いのを刈って持って、刀か何だろうか、根もとを切る様子が楽々としていてすばらしいので、ひどく自分でやってみたいように見えることだよ。どうしてそんなことをしているのだろうか。穂を上に向けて立てて、自分たちは並んで腰をおろしているのが、とてもおもしろく見える。仮小屋の様子が変っている。

 男性だけが稲刈の鎌で根元を楽々と切っている様子を「めでたきこと」とほめそやし、自分もやってみたいことよと感動している。しかしここでも稲刈り労働の苦しさは見えていない。彼女には男たちのしんどい作業が分かっていないのである。しかし実りの秋の収穫の光景の描写としては実によく書けているが、所詮現実ばなれした貴族の優雅な生活から見られ、客観的なエゴイズムの観察でしかない。清少納言が宮中に仕え、視野や体験が狭いこともあり、また彼女自身楽天的で、政治的社会的事情に疎いところがある。「枕草子」は作者の性向から、おかしいものはおかしい、滑稽なものは滑稽だと言いきっていて、細部は確かによく描かれているが、否定的にいえば、同情や感傷ということには不感症な文学だと言われる。バフル期に育ったわがままなブランド趣味の若者の性情と似かよっている。もっとも清少納言のほうがずっとすばらしいが。


畦道で田植え歌を唄い、田の神様に豊作を祈願する


滋賀県野洲地方 田植え歌を唄いながら早乙女たちの手植え