human and environment
1.有機塩素系農薬の大量生産・大量使用と
 環境汚染の顕在化
- 環境ホルモン -  今井 佐金吾

 欧米諸国では第二次世界大戦の戦時下、食糧の増産が重要な課題であった。そこで、それまで無農薬栽培か、せいぜい無機系農薬の使用にとどまっていた農業に、DDT、BHC、パラチオン、ディルドリン、エンドリン、クロルデンなどの殺虫剤、そして2、4−Dなどの除草剤等々の強力な有機塩素系農薬が次々に開発、製造され、大量使用されることになった。さらに、戦後の早い時期から、これらは途上国に向けても大量輸出されるようになった。

 しかし、当時、これらの農薬は有害性について十分な研究もなされないまま人畜無害とされ、農業生産のために無くてはならないものとなり1972年に米国で使用が禁止されるまで大量散布され続けた。

 我が国に於いても食糧増産のため、戦後まもない1947年頃からDDTを始めとする有機塩素系農薬を大量に輸入しはじめ、1971年にその使用が禁止されるまで大量散布が続くことになる。

 このように、多くの国で有機塩素系農薬の大量散布の時代を迎えていたが、先進国の科学者や、それぞれの国の行政機関はこれら化学物質の急性あるいは慢性毒性、脂肪親和性ゆえの生体濃縮、そして難分解性ゆえの環境残留性など、重大な環境汚染が進行しつつあったことを予見性をもって認識していなかった。ちなみに、DDTなど有機塩素系農薬の一部は、現在でも先進工業国により製造され、途上国への輸出が続いていることから、地球規模の汚染が続いているのである。

 なお、有機塩素系農薬類は「環境ホルモン」が疑われる主要な物質である。


出所:読売新聞 1946年 東京上野
「環境ホルモンのしくみ」佐藤 淳・著
日本実業出版社 1999

 終戦直後、日本に進駐してきた連合国軍総司令部はノミ、シラミの媒介する伝染病対策のため、駅、学校、街頭などでDDT粉末を強制的に人体に直接散布した。DDTは殺虫剤として使用する際は油性とする。もし、この状態で人体に噴霧していたなら、体内への吸収の度合いが高まり、脂肪親和性のゆえに残留度が高まり、重大な人体影響を及ぼした可能性があった。また、米軍は戦地でマラリアを媒介する蚊の駆除にも大量に散布したといわれる。


出所:読売新聞 1972年 福島県
「環境ホルモンのしくみ」佐藤 淳・著
日本実業出版社 1999

 我が国では1971年にDDTの使用禁止措置がとられた。そのため、大量の備蓄分が処分されることになったが、最終処分方法などが確定しておらず、可成りの長期に渡り野積みされるケ−スが多かった。


出所:「運命の海に出会って レイチェル・カーソン」
マ−ティ−・ジェザ−著 山口和代訳
ほるぷ出版 1995

 78エ−カ−(約0.32Km2)程度の広さの農場でも、1年間に使用する化学製品は、このように膨大な量にのぼる。

レイチェル・カ−ソンの警告

出所:「運命の海に出会って レイチェル・カーソン」
マ−ティ−・ジェザ−著、山口和代訳
ほるぷ出版 1995

Rachel Carson
 水生生物学者、米国合衆国魚類・野生生物局に勤務の後、有機塩素系農薬類の生態系への影響についての調査活動に専念、1962年に " Silent Spring "を出版。

 1940年代後半から、米国5大湖周辺で有機塩素系殺虫剤、つまりDDT(ジクロロ・ジフェニル・トリクロロエタン)、BHC(ヘキサクロロ・シクロヘキサン)、アルドリン、ディルドリン、クロルデコンが大量に散布された影響がすでに生態系に現れ始めていた。後にこれらの化学物質の環境ホルモン作用(女性ホルモンと似た作用)が疑われる野生生物の繁殖力の低下や、周辺住民の発ガン率の増加などの問題がもちあがっていたのである。

 1950年には米国のリンデマンらがオスのニワトリにDDTを投与したところ、第二次性徴が全く起きず、また精巣が殆ど発達しないことを確認した。つまり、DDTにはエストロジェン(女性ホルモン)とよく似た作用があることを、はやくも報告していたのである。しかし、これらの事実は当時まったく無視され、有機塩素系農薬は益々大量に生産され、大量使用され続けた。

 このような状況に憤激したレイチェル・カ−ソンは、有機塩素系化学物質の毒性に関する国内外の文献を徹底的に調査し、さらに生態系に起きている異変を調査した。そして、1962年に遂に、かの有名な著作「沈黙の春」を世に問うたのである。女史はその著作の冒頭で「このままでは、緑が萌え、小鳥がさえずる春はもうこないだろう」と記し、有機塩素系農薬をはじめとする化学物質による重大な環境汚染の進行と、これらが自然に及ぼす恐るべき影響を予見したのである。

 レイチェルはたちまち全米の化学工業界から悪意に満ちた凄まじい攻撃をうけることになったが、科学的な根拠に裏付けられた緻密な議論は、1962年末までに、はやくも40を超える農薬規制法が全米の州議会に提出される程の影響を与えたのである。そして、1963年にはケネディ−政権下の大統領科学諮問委員会により支持されるところとなった。以来、1970年の米国連邦政府・環境保護庁(EPA)の創設、そして1972年のDDTを始めとする環境残留性の高い有機塩素系農薬の一部使用禁止措置などのきっかけとなった。

 レイチェルはインタビュ−に答えて自己のエコロジ−に関する考え方を「自然のバランスは生物間の相互関係、及び生物と環境との一連の相互関係から成り立っています」と述べ、「あらゆる動植物、つまり、どんな小さな微生物であろうと人間であろうと、地球上の生命が生き残るうえで欠くことの出来ない役割を果たしている。野蛮な力でずかずかと踏み込み、一つのことを変えれば、必ず多くのことを変えずにはおかないのです」と警告している。