human and environment
3-3.脳死問題と臓器移植の問題
- 医療環境と生命倫理 - 谷 荘吉
前項において、バイオエシックスの関係で触れたが、ここでは、脳死の意義とその意味するところをもう少し掘り下げて考察したい。1998年日本政府は、国会決議として、脳死を「人の死」としてみとめる法律を作成した。それは、純医学的に脳死判定の基準を満たした身体状況の人体は、死亡と診断することが出来るというものである。法律で決定されると、否定も反対も効力を失うが、その決定に不服の意見を主張している学者が存在していることも事実である。 それは、人間の「死」をどのように捉えるかの、文化的、宗教的、哲学的、医学的、生物学的、あるいは、社会的、生活感情的な多面的な観点から、誰からも、反対の余地がないところまで、問題点を煮詰め、解決しているかといえば、非常に曖昧である。 「死の定義」は、人間の頭脳の中での思考に過ぎないというのが、大前提である。それは、抽象論でしかない。なぜなら、生物の死は、自然現象の一部の表現であって、生物体が死体に移行する自然現象を、人間の目で、どの様に捉えるかが問題であって、「死亡状態」という実態のみが存在する。それは、時間経過の因子が重要な意味を有している。 すなわち、生物体が死体に移行するのは、ある特定の定められた瞬間的時間ではなく、時間経過のある時点で、最終的な完全な死亡状態となるのである。そこで、人間の死亡をどの時間経過を持って、診断判定するかが問われていることになる。所謂、古典的死亡確認は、身体の3徴候判定により、行われて来た。 しかし、例えば、心臓移植では、心臓が自律的拍動を保っているときに提供してもらわなければ、生着状況が悪いか、困難であるという理由で、動いている心臓を摘出しなければならない。そうした事情の下では、心臓は動いているが、人間としては、死亡しているという判定診断と、それを人間の死亡とするという死亡確認が認容されなければならないことになる。従って、脳死判定は、まさに、臓器移植のために必要なのだといえよう。 またそれとは別に、脳死状態での延命治療は、治療費の無駄使いだという意見もある。 生物学的には、「自然死の状態」との時間関係から見ると、かなり早い時点での死亡宣言(決定)ということになる。それは、自然現象の死を、人間の都合で、早めに「死亡」(心臓はまだ動いている身体状態だが死亡)と決めたことになる。 極端な考え方としては、従来の医師による古典的死亡確認も、自然界における完全死からみれば、まだ早い時期だといえよう。周辺の人間が視覚的に認識出来る死亡の徴候は、呼吸停止である。小学校低学年の子供でも、飼育していたペットが死亡したことを確認できるのは、臨死期の動物が呼吸を停止した時である。子供でさえも、死亡を認識できる状態は、誰にでも納得行く死の判定ではないであろうか。 心臓がまだ動いている人間を「死んでいる」と認めるには、かなりの飛躍が必要であろう。生物学的観点だけでなく、上述のような多角的観点からの認識としては、人間の死を認容するには、別の見方が関係している。専門家の中でも、判定困難な、脳死判定の基準をもって、万人の人間の死を認容しろといわれても、そう容易には、納得出来るものではないというのが、現在の筆者の考え方である。 臓器移植の問題は、さらに複雑である。それは、医療的観点からは、臓器移植という診療技術が高度に発展した関係から、移植をしなければ、短時日のうちに死亡する患者の生命を、移植をすれば、救命出来るという事実が存在するからである。他人の心臓を提供してもらって延命することの意義とその意味をどのように理解するかの問題に切り換えることが必要となる。基本的には、「死生観」の問題に帰結する。 臓器移植が必要になった時に、自己の人生をどう受け止めるかの「死生観」と、それを認容する医療環境の問題でもあろう。
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