最近における地球規模の環境問題の顕現化もあって,人々の環境や環境問題に関する関心の度合いはいくらか高まりを見せているが、現実の環境は必ずしも改善されているとは言いがたい状況が続いている。それには後でふれるように環境とか環境問題のもつ本来的な性質が影響しているように思われる。
ところで、人類にとって環境問題は今に始まったわけではなく,その歴史において時代なり地域なりにさまざまな形で存在した。はじめのころは人間を取り巻く環境はほとんど自然的環境要素から成り立っていたが、時代が下がるにつれて人為的環境要素が多くなり、今日では後者のほうが大部分を占めるまでになっている。このことは従来、「進歩」というキーワードで当然の出来事として評価されていたが、「環境問題」という視点で捉え直すと違った評価が出来る。すなわち、もともと人間は他の生物と同様、現状に満足していれば、その環境を変えようとはしない「保守的」性質をもっているのではないか。環境を変えようとするのは、その環境に満足していない、言い換えれば何らかの環境問題が存在するからであろう。例えば、狩猟採取生活を営んでいた時代の人々が農業という技術を生みだし、生活スタイルを変えるようになったのには、人口増加などにともなう食べ物の不足という環境問題があったからであろう。古代のメソポタミア文明社会に見られた灌漑農業技術も湿潤・温暖から乾燥・寒冷へと地球規模の気候変動をきっかけに生じた食料不足という環境問題を解決するために生み出されたものである。これによって食料不足という環境問題は一時解決を見たが,やがて,塩害という新たな環境問題が生じ,その解決ができないまま,メソポタミヤ文明は崩壊した。
人類の歴史にはいろいろな文明の栄枯盛衰が見られたし、また地域ごとにさまざまな生活スタイル(「文化」と呼ぼう)が見られたり、現在でも存在しているが,こうした文明や文化はそれぞれその時代や地域が抱えていた環境問題の解決を目指した結果のものと言える。現在我々が享受している文明は17世紀に生まれた近代科学の知識を活用して開発された技術,いわゆる科学技術が生活の中に深くかかわり,近代科学のもつ実証精神などを思想的バックボーンにした文明である。その科学文明は我々に物的豊かさ,便利さ,快適さなどを与えてくれ、人々はそれを歓迎し、今日までそれを受け継いできている。しかし、今、その科学文明なるものが、必ずしも自分達を幸福にしてくれるとは限らないことに人々は気づきはじめたのである。