human and environment
1-3.環境問題と環境主体
- 環境教育とは -  鈴木 善次

A. 環境と環境主体
 マスメディアなどを通して環境問題に関連する言葉、例えば「地球の温暖化」や「ダイオキシン」など、を知っている人は多い。しかし、その先の事柄、「ダイオキシンとはどのような物質なのか」「何故、問題なのか」などについての掘り下げた知識を持ち合わせている人は案外少ない。何故か。それは、こうした「環境問題」を自分の「環境問題」として受け止めていないからではないか。もし、本気になって受け止めていれば、言葉だけでなく、中味を知ろうとするのではないか。では、人々は何故、本気になりにくいのだろうか。そのためにはそもそも「環境」とは何を指しているのかも検討する必要がありそうである。しばしば,「環境」イコール「自然」というイメージで語る人や「環境」を自分とは独立した客観的存在のように受け止めている人に出会うことがあるが、それは誤りである。「環境」というものは人間や他の生物などが存在してはじめて出来上がってくるものである。この場合、環境を成り立たせる主体(人間や他の生物など、「誰々にとっての環境」というときの「誰々」のこと)を「環境主体」という。この言葉を使えば、「環境は環境主体が存在してはじめて存在するもの」であり、環境主体なしの抽象的な環境などないのである。例えば,ある部屋を想定してみよう。その部屋に誰もいなければ,その部屋は誰の環境でもなく,単なる空間である。もし,そこにイヌが入ってきたとするとその部屋をつくり上げているものによってそのイヌにとっての環境ができあがる。また,人が入ってくれば今度はその人の環境ができあがるわけである。その場合,イヌと人,それぞれにとっての環境は違ってくる可能性がある。なぜならば,環境とは単に環境主体の周りにあるものでなく,環境主体とかかわりをもつものを指すからである。いくら周りにあっても環境主体とかかわりをもたなければそれはその環境主体にとっての環境にはならない。この場合,かかわりをもつ周囲のもの,たとえば部屋の空気,天井の蛍光灯の光など一つひとつのものを「環境要素」と言い,それらの総体をそのときの環境と言うのである。実際には周りにあって環境主体とかかわりをもたないものはほとんどないので,「環境主体の周囲イコール環境」と言ってもあながち間違いではない。


環境と環境主体との関係図


B. 環境問題と環境主体
 環境主体と環境(実際にはそれぞれの環境要素)との「かかわり」方は環境主体の置かれた状況によって異なるはずである。人間の場合にはそれぞれ個人の肉体的、精神的状況の違いが影響するであろう。そこから生じることは,同じ場所にいても,人によってその場所が好ましいところかそうでないかに違いが生じるということである。同じ音楽を聞いてもそれを心地よく感じる人もいれば,心地よいどころか,騒音に聞こえる人もいるであろう。その場合後者にとってはその音楽は環境問題となる。

 一般的に言えば,環境問題とは環境主体と環境との「かかわり」(これには直接的かかわりと間接的かかわりがある)が好ましくない状態である。したがって環境主体のいないときには環境問題は存在しないことになる。すなわち,環境主体が存在しない抽象的な環境問題など存在しないのである。先に取り上げた地球の温暖化もオゾン層の破壊も、さらには砂漠の拡大も環境主体を考えない限り、それは単なる現象に過ぎないのである。従って、これらを問題にするときには環境主体が誰であるかを明確にしておく必要がある。環境問題を抽象的にとらえている限り,また直接的かかわりでなく、間接的かかわりであればあるほど人々は自分が環境主体であることに気づきにくく、なかなか本気になれないのである。


   環境主体のレベルの図              環境のレベルの図
 
 (人間の場合)
個人
集団 家族 
   地域住民
   人種・民族
   国民
   人類
 
環境要素
 自然的   人為的
(例)光・音   人工化学物質
   水・空気
環境要素の集合
(例)川・森   都市・農村
地球・太陽系・宇宙

 ところで,環境主体となるものにはいくつかのレベルがある。人間を例にしたとき個人のレベルに始まって家族,地域住民,人種や民族,国家の構成員などのレベルで考えることができる。もちろん他の生物との関係では人類全体というレベルも成り立つ。したがって環境問題もそれぞれのレベルごとに存在することになる。個人のレベルの環境問題のとき,それがほとんど他に影響を及ぼさないものであれば個人の価値観や判断で解決してよいであろう。しかし,他に影響を及ぼす場合にはそう話は簡単でない。ある人にとって環境が改善されたとしても他者にとっては環境が悪化する場合はしばしば見受けられる。こうしたことは個人レベルだけでなく,人種や国家レベルでも存在する。歴史上の出来事をいくつか思い出してみればうなずける。たとえば,西ヨーロッパの人たちが新天地を求めてアメリカ大陸へ移住したのは自分たちの生活をよくするため,言い換えれば環境を改善するための行動であった。しかし,そのことによってもともとそこで生活をしていたネイティブ・アメリカン(従来はアメリカ・インディアンと呼ばれていた)たちにとってはそれまでの生活スタイルを変えざるを得なくなった。それは彼らにとって環境悪化であったかもしれない。

 今私たちに求められているのは、一見自分とは関係なく、他者が環境主体となっている環境問題に対して自分もその環境主体であるという認識に立って、その解決に向けて共に努力することである。実際にさまざまな地球規模の現象は人類全体を環境主体とする環境問題となっている。「エゴ」(自己中心的意識)から「エコ」(共生の思想)への変革。それを促す教育活動がまさに環境教育なのである。

    EGOISTIC →(environmental education)→ ECOLOGICAL