human and environment
2-1.環境教育の歴史
- 環境教育とは -  鈴木 善次

 では、「エゴ」から「エコ」への意識変革を促す教育活動としての環境教育にはどのような歴史があるのだろうか。以下に国際的動向、国内の動向、それぞれについて述べてみよう。

A. 国際的動向
 環境教育という言葉が現れたのは1970年のころである。これより先,1962年にアメリカで1冊の注目すべき本が出版された。それは農薬の危険性を訴えた女性動物学者レイチェル・カーソン(Carson,R.)の著した『沈黙の春』。農薬メーカーはただちにその内容について反論を展開するが,当時の大統領ケネディの知るところとなり,農薬の危険性の有無についての調査が命じられた。


出所:「運命の海に出会って レイチェル・カーソン」
マ−ティ−・ジェザ−著、山口和代訳
ほるぷ出版 1995


 このことがきっかけとなって,アメリカでは環境問題への関心が高まった。農薬問題ばかりでなく,ロサンゼルスを中心とする大気汚染,エリー湖等の水質汚濁などの環境問題も存在していた。こうした状況を受けて1970年の大統領教書(ニクソン)はもっぱら環境問題に集中した内容となった。そのアメリカで同じ年に環境教育法(Environmental Education Act)という法律が成立している。この法律は環境教育の推進のためのプログラムづくりを目指したものであり,10年間の時限立法であった(1990年に「新環境教育法」が制定された)。この法律に基づきアメリカでは環境教育への関心が高まり,いろいろなプログラムの開発が進められた。例えば、今でも各国で活用されているPLT(プロジェクト・ラーニング・ツリー)など。

 国際的には1972年のストックホルムで開かれた国連人間環境会議において提案された人間環境宣言の中で環境教育の必要性が示され,それを受けて1975年に当時のユーゴスラビアの首都ベオグラードを会場にして環境教育の専門家会議が開かれた。ここでは環境教育の目的や目標が検討され,それを盛り込んだ「ベオグラード憲章」なるものが制定された。さらに2年後の1977年にはグルジア共和国の首都トビリシで同じく専門家による国際会議がもたれ,先のベオグラード憲章の再検討が行われ,環境教育の目標にいくらか修正が加えられた「トビリシ勧告」が出された。

 その後,環境教育への取組みは各国の事情に応じて違いは見られたが,全体としては必ずしもスムーズになされたとは言いがたい状況であった。とりわけ,先進国と途上国による経済状況の違いからの環境問題への対応,それに伴っての環境教育の取組みの違いが目立った。しかし,1980年代からの地球規模の環境問題の顕現化は環境教育への関心を世界的な規模に高めることになった。先に紹介した1992年のリオの地球サミットで出された「アジェンタ21」なる行動計画にも環境教育のさらなる推進が盛り込まれた。

 今日では、欧米やオーストラリアなど先進国のみでなく、タイ、中国、韓国、台湾、フィリッピンなどアジアの諸国においてもいろいろな形で環境教育への取り組みが見られており、国際交流を通してわが国の環境教育にも影響を与えつつある。



B. 日本での動向
 日本では環境教育に関して2つの先駆的活動が見られている。ひとつは1960年代から特に問題になった公害への対処として登場する公害教育であり,もうひとつは1950年代から進んだ自然破壊への危機感から出された自然保護思想を育てようとする教育,すなわち自然保護教育である。

 公害教育の場合,すでに1960年代に一部の熱心な教員たちによって子どもたちを公害から守り,公害問題についての認識を高めようという活動がスタートしていた。たとえば1967年には全国小・中学校公害対策研究会が発足している。その後1970年に開かれた国会において公害教育の必要性が指摘されたことによって小学校および中学校の社会科の学習指導要領が改訂され正式に学校教育の中で実施されることになった。地方の教育委員会は公害に関する副読本や教師用の手引き書などを作成し,その普及を図ったが,公害では加害者イコール企業,被害者イコール住民という構図が浮かび上がり,ときには企業追及の授業が行われることにもなり,その指導の在り方について戸惑いを見せる教員もいた。

 自然保護教育の必要性については1951年に発足した日本自然保護協会によって1957年に「自然保護教育に関する陳述」という形で指摘された。戦後の復興から経済成長を優先する政策の下,全国各地で開発が進み.見る見るうちに自然が失われていく状況を危惧した生態学関係の学者たちが声を上げた。その後,1971年に日本生物教育学会も「自然保護教育に関する要望書」を提出している。

 こうした2つの先駆的活動があったとはいえ,日本の環境教育は必ずしも順調に展開されたのではなかった。その理由については公害教育に対する偏った見方が一般の教員に影響したのではないかという見解もある。1973年ごろ環境教育という言葉が一部の大学の研究者グループで使用され始めるが,全体として環境教育なる言葉が定着するのは1980年代後半になってからである。ただし,先の全国小・中学校公害対策研究会は1975年には全国小・中学校環境教育研究会に改名している。

 1980年代の地球規模の環境問題の顕現化は日本の環境教育の在り方にも影響を与えた。1988年には環境庁が環境教育を進めるために設けた懇談会によって「環境教育懇談会報告」が出された。1991年には文部省によって中学・高校用の『環境教育指導資料』,翌年の1992年には小学校用のものがそれぞれ刊行され,環境教育の推進に力が入れられることになった。以来,地方自治体では教育委員会や環境行政部署のレベルでのさまざまな取組みが展開されるようになった。特に,公害対策基本法(1967年制定)が改められて登場した環境基本法(1993年制定)には環境教育の重要性が明記され,その実践が大いに期待されている。環境庁によって創られた子どもエコクラブもその期待される活動のひとつである。なお、1990年には環境教育を組織的に研究し、実践化を目指す研究者や教育者によって日本環境教育学会が発足し、今日まで積極的な活動が続けられて来ている。また、消費者のグループや企業などでもそれぞれに環境や環境問題に関する学習活動を展開している。

参考文献
「レイチェル・カ−ソン」
マ−ティ−・ジェザ−著 山口和代訳
ほるぷ出版 1995