6-1-2 新聞記事を調べる
実際に受講生が書いたレポート
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縮刷版やCD−ROMなども利用し自分や身近な人の誕生日を調べて、「○○の誕生日」というレポートを書いてみよう。A4用紙1頁程度にまとめること。検索ツールのそれぞれの特徴を知っておこう。 |
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次に紹介するのは、実際に受講生が書いたレポートである。参考に読んでみよう。
実例1 「私の誕生日(5月9日)」
「母の日は大正期にキリスト教婦人団体の手で我が国に伝わり、昭和になって皇后誕生日の三月六日とされた。敗戦後は米国に倣って五月の第二日曜日になった。」
これが私が生まれたときに出た記事です。自分自身母の日が5月の第二日曜というのはあたりまえのものと思っていたが、このような段階があったことはまったく知らなかった。私の誕生日の5月9日はよく母の日とかぶることが多いのであまりよい日に生まれたとは私自身そんなにうれしいとは思えません。この記事を見て思ったのは、やはり敗戦後日本はアメリカに多大な影響を受けているなということです。自分が生まれた時代、つまり、戦後のバブル時代は戦争というものがなければありえなかった状態であり、私の立場もまた変わっていたかもしれません。
(社会学科・学生、H.F.)
実例2 「62年前の誕生日」
うっわー! 感激!!
なんと、60余年前の自分の誕生した日の新聞を見ることができた。子供たちや孫にはそれぞれ彼らの誕生日の新聞をアルバムに挟んでやっていたのだが、自分のはこれまで一度も見たことがなかった。大東亜戦争の始まる前で、日々暗くなっていった時期ではなかろうか。どんな内容の紙面が掲載されているのか。5号館地階の雑誌館へ、わくわくして降りていった。すぐに見つかった。
大阪朝日新聞。もちろん、右から左へと書き進む。なんとも古い感じ。いかにも昭和の初めなんだ。「あす大本営設置二周年」。一面右上の大きな見出し。‘営’の字はこれではなく難しいのだ。戦前の生まれではあるが小学校入学は昭和21年だから、習った漢字はすっかり新しいもので、読めなくはないが書くことはできない。小説などでわざわざ戦前の漢字や送り仮名、文体を使っているのがあり、かなり見慣れている方だがやはり珍しい。「皇軍、広西を破竹の猛進」。20年8月末まで、ずっとこんな調子で国民は追い立てられていたわけだ。右から左へ「戦地偲んで挙国節米へ」と出ていた。勿論、地と米とひらがな以外はすべて古い漢字。ほとんど戦時体制一色なのだが、それでも新聞小説は連載されていた。『泉』、岸田国士作。全面広告紙面もあり、これらは今と変わらない。養命酒、資生堂、武田薬品など今日まで続いているのだ。
全く思いもかけず、自分の誕生日の新聞に出会えた。どう表現すればよいのか。ともかく奇妙な喜びなのだ。見たからといって、知ったからといって、何がどう変わるわけのものでもないが、嬉しく、楽しい。変な充実感に満たされた。
(社会学科・大学院生、N.M.)
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