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modern chinese economy
1-1. 清朝末期の中国
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


 この部分は、社会主義中国が誕生するまでの歴史的背景を概説した部分です。中華人民共和国の建国前に、中国がどのような状況であったかを知っておくための「読み物」の部分です。「中国経済」とは直接関係ありませんが、時間的に連続した視野で中国を見ることは大切だと思います。


1-1-1 第一次アヘン戦争
当時の広州は日本の長崎と同じように、中国の唯一の貿易港でした。ただ、長崎と違い貿易相手国を特定はしていませんでした。
イギリス(東インド会社)は中国からお茶を輸入していましたが、中国には輸出するものがなく、イギリスの貿易赤字でした。そこで、イギリスは販売が禁止されていたインド産のアヘンを中国に「密輸」して貿易を均衡させていました。
しかし、アヘンの氾濫のよる中毒患者の激増に、社会が混乱します。清朝政府は1840年に欽差大臣・林則徐を広州に派遣し、アヘンの取り締まりにあたらせました。
林則徐は広州のイギリス貿易商からのアヘンの没収を決定し、実行に移します。「アヘンは取り扱わない」という誓約書にサインしない限り貿易を許可しないという方針に対して、イギリス側が逆切れし、戦争になります。これがアヘン戦争です。

アヘン戦争
アヘン戦争
(毎日新聞提供)
近代的な兵器を持つイギリスを前に清朝の軍隊は歯がたたず、道光帝は講和します。戦後処理のために「南京条約」と「通商章程」が結ばれ、清朝は、没収したアヘン代金を含めた賠償金支払い、香港の割譲、広州以外の4港の開港、ならびに実質的な治外法権を認めました。
その後、類似の内容の条約をアメリカ(望厦条約)、フランス(黄埔条約)と結び、中国の欧米諸国による植民地化が始まりました。

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1-1-2 第二次アヘン戦争
洪秀全が太平天国の乱を起こして、国内が大混乱しているときに起こったのがこの戦争です。先進国側は「アロー号事件」と呼んでいますが、これもアヘンがらみですので、中国では第二次アヘン戦争と言われることが多いようです。
1857年に中国船籍のアヘン密輸船アロー号が広州で臨検を受けて、イギリス人船長が逮捕されたことによります。その頃フランス人宣教師が別の犯人隠匿などの罪で中国政府に逮捕されたこともあり、両国政府は再び広州を攻撃したうえ、今回は天津にも艦隊を派遣します。
英仏の武力による威嚇に咸豊帝は講和します。結ばれた「天津条約」は、清朝の前面開国を意味し、外国人が自由に通商できるようになりました。また、清朝はアヘンの輸入も実質的に認めさせられました。
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1-1-3 洋務運動
・列強との戦争に敗北し植民地が進む中で、2つの大きな流れがおこります。
(1)科学技術や軍備を西洋化することによって、近代化しようとする動き。
清朝の漢民族の官僚である曽国藩・李鴻章らによって1860年ごろより推進された。彼らの改革は技術や軍備面での西洋化であったので「洋務運動」とよばれます。
しかし、それは、現中国の体制は維持しつつも、近代化の手段として西洋方式を採用しようとするものであったので、掲げたスローガン「中体西用」でした。
(2) 外国の干渉を排除し清朝を倒すことにより、民族国家を作ろうとする動き。
これは、政治体制の変革を求めるものです。その最初の表れは、満州民族の支配に対して自由平等を標榜した太平天国の乱(スローガンは「滅満興漢」)です。
また、民主化と民族の独立を勝ち取ろうとする孫文らの革命への動きも始まっていました。
こうした動きがちょうど日本の幕末・明治維新の動乱の時期と一致するのは、偶然ではありません。当時のアジア諸国が本格的に西洋文明との対峙を向かえて、いかに動揺していたかがわかります。
・1894年の日清戦争で清は日本に敗れます。洋務派の領袖である李鴻章が率いる北洋軍隊が壊滅すると、洋務運動的発想は勢いを失います。
日清戦争・黄海での海戦
日清戦争・黄海での海戦
(毎日新聞提供)
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1-1-4 変法自強
そこで、清朝官僚である康有為・梁啓超らは、清朝を擁護しながらも体制(法)そのものを西洋化し、国家を強くするという「変法自強」運動を1895年に始めます。
しかし西太后を中心とする時代を読めない保守派に弾圧されてしまいます。彼ら保守派は、国を守るという意識がなく、自分の地位を守ることしか頭にありません。袁世凱(李鴻章の子分)が変法派を裏切り、西太后に寝返ったためだといわれています。西太后は、「変法自強」に好意的であった光緒帝を幽閉し、変法派を粛清します。これが、1898年のことですので、その干支から戊戌政変といいます。
ちなみに、光緒帝が幽閉されたのは、明治維新では日本のいわば変法派であった伊藤博文との会談直後であったのも歴史の因縁を感じます。
西太后
西太后
(毎日新聞提供)
これを最後に清朝を擁護しながら、中国を改革しようとする空気はなくなり、流れは、反清朝、反満州民族、革命へと動き出します。
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1-1-5 義和団の乱
「変法自強」運動が失敗に終わったころ、反キリスト教、反欧米列強を掲げた宗教集団である義和団が山東省で暴動を起こし、やがて北京に入城します。彼らのスローガンは「扶清滅洋」でしたので、清朝の反動政権は彼らを歓迎したばかりか、こともあろうに、欧米列強に戦いを挑みました。
しかし、自国民の保護を名目に、列強八カ国連合軍(含む日本)が北京に進駐し、義和団を鎮圧します。このあたりから日本は中国への影響力を強め、反対に、清朝政府は全く当事者能力を失ってゆきます。
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1-1-6 辛亥革命
孫文は1905年に、東京で反清朝組織を糾合した「中国革命同盟会」を結成します。政治目標は民族主義、民権主義、民生主義よりなる「三民主義」でした。
1908年に西太后と光緒帝が相次いで死にます。そして、次の皇帝が「ラストエンペラー」と知られる宣統帝です。皇帝は三歳、その父醇親王(光緒帝の弟)も25歳と若い政権だったので、実権は直隷総督であった袁世凱が握ります。
満州族は満州地方の地主となり、その年貢で生活していましたが、日露戦争の戦乱で農地は荒れ、その生活基盤を失っていました。漢民族である袁世凱が実権を握ったのもこういう背景があります。
孫文は1911年に武漢で武装蜂起し、それに呼応して中国南部の各省は相次いで独立を宣言します。この武装蜂起をその年の干支から「辛亥革命」と呼んでいます。

孫文
孫文
(毎日新聞提供)
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1-1-7 袁世凱時代
もはや清朝の軍隊は袁世凱の軍隊です。袁世凱の軍隊(北軍)と革命同盟会の軍隊(南軍)の全面戦争の危機となります。しかし、内乱を避けたい孫文は、袁世凱に譲歩し、彼を臨時大統領とすることでで、事態の収拾を図ろうとしました。
1912年に宣統帝が退位し、袁世凱が大統領となり、国家名を「中華民国」とします。日本では明治天皇の崩御、大正天皇の即位の年です。
しかし、革命の意味など理解しない、袁世凱はと大統領と皇帝の区別もつかず、独裁色を強めます。孫文はこれに対抗するため、小会派の集まりであった「同盟会」を「国民党」改組します。
ついに、1915年には袁世凱は共和制を廃止、自ら皇帝となり洪憲と名乗ります。しかし、各地方はこれに猛反発する中、翌年に袁世凱は死亡。中国は、南部は孫文を中心とする国民党政府、北部は袁世凱の部下であった軍人(軍閥政権)たちが割拠する分裂状態となります。

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