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1-2. 蒋介石と毛沢東
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


1-2-1 対華21か条の要求
第一次世界大戦で欧州が戦場になり、欧米列強が中国を省みる余裕がなくなったのは、日本にとっては中国進出の絶好の機会とみました。
1915年当時の大隈重信総理は袁世凱政権に中国の半植民地化を意味する21か条からなる要求を提出します。軍事力を理由に日本の要求を呑まざるを得なかった中国からすれば屈辱であることは言うまでもありませんが(中国では要求を受け入れた5月7日は国恥記念日といわれます)、日本側はそうした要求を諸外国の目を盗む格好で中国に突きつけるのは、国家として大問題でしょう。
余談ですが、大隈重信のみならず、福沢諭吉も日本の大陸進出に極めて肯定的でありました。帝国大学に加えて、早稲田大学も慶応大学も当時はそういう雰囲気であったということでしょう。

大隈重信
大隈重信
(毎日新聞提供)
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1-2-2 ロシア革命と五四運動
ロシアでは1917年に革命が起こり、ソビエト連邦が成立します。
ロシアは伝統的に南下政策を進めてきましたが、アジアでの南下政策は日露戦争の敗北(1905年)により頓挫し、欧州ではドイツとの戦い(第一次世界大戦)が泥沼化する中、民衆のロシア皇帝への信頼が急速に低下しました。こんな中、レーニンを中心とする共産党が政権を奪取します。

レーニン
レーニン
(毎日新聞提供)

ソビエト共産党は世界革命を目指し、その指導組織としてコミンテルンを組織します。中国にも影響を及ぼしてゆきます。
一方、第一次世界大戦後の処理のために開かれたベルサイユ条約(1919年)では、日本が接収したドイツの利権が中国には返還されないことが決定されました。これに対する抗議運動が北京天安門広場で起こった日が同年5月4日だったことから、これを「五四運動」といいます。日本と政府をターゲットにした抗議行動という意味で、これまでの辛亥革命や反袁世凱運動とは異なっていました。
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1-2-3 中華民国の成立と孫文の死
孫文は五四運動の中、1919年10月に「国民党」を改組し「中国国民党」を組織します。1921年5月、ついに孫文は広東で「中華民国」政府の総統に就任します。
他方で、1921年7月に、コミンテルンの指導の下、上海で第一回全国代表大会が開かれます。毛沢東も湖南代表として参加しています。
孫文は、北部の軍閥を掃討(北伐といいます)しようとしますが、身内のクーデタにより失敗。政権を軍閥から回復し、日本のような外国の圧力に対応するためには、軍事力が必要であることを痛感すると同時に、ネップ(新経済政策)体制下のソビエトに急接近します。
1923年には、共産党員が個人の資格で国民党に加入します。これを第一次国共合作といいます。孫文は、孫文の義理の弟にも当たる蒋介石をソビエトに派遣し、赤衛軍の組織と訓練を学ばせます。蒋介石は黄埔軍官学校の校長になります。
孫文は北伐に着手します。上海まで北上した後、日本経由で天津に向かいます。その寄港地神戸で「大亜細亜主義」と題する講演を行っています。孫文は、日本は欧米列強に倣ってアジアを侵略する覇道をとるのか、それとも弱小アジアの見方となる王道をとるのかと迫りました。このとき既に癌に侵されていた孫文の最後の願いでした。
孫文は1924年暮れに北京での工作活動に入りますが、翌年3月に死亡します。「革命いまだ成功せず」を遺言に残しています。
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1-2-4 蒋介石のクーデタ
蒋介石は1925年の孫文の死後、国民党軍の司令長官に就任します。そして、1927年に蒋介石は4月に上海で反共産主義クーデタを起こします(4.11クーデタ)。ここに第一次国共合作は瓦解します。そして、10月に「南京政府」を樹立します。

蒋介石
蒋介石
(毎日新聞提供)
1928年に蒋介石軍は奉天軍閥・張作霖の北京からの追放に成功します。張作霖は自分の根拠地である奉天に帰って再起を図ろうとします。張作霖政権は日本の傀儡政権でしたが、英米と接近したため、日本軍からは「忘恩の徒」と写っていました。そのため、日本軍が鉄橋に仕掛けられた爆弾によって死亡します。日本ではこれを「満州某重大事件」と呼んでいます。

張作霖
張作霖
(毎日新聞提供)
張作霖の後を継いだ息子の張学良は民族主義者でした。日本軍は若い彼を甘く見て彼から満州地域を取り上げるつもりでしたが、張学良は中華民国の旗である「青天白日旗」を掲げて、満州地域が中国の一部であることを主張します。

青天白日旗
青天白日旗

張学良
張学良
(毎日新聞提供)
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1-2-5 満州事変
こうした張学良の動きに対して日本の関東軍は武力で対抗します。1931年9月18日に柳条湖で鉄道を爆破します。これが満州事変の発端です。破れた張学良は国民党の蒋介石の麾下に入ります。
1932年日本軍は満州地域を制圧し、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀を担ぎ出して、満州国の皇帝とします。こうして、日本は対華21か条の要求を実現させ、満州国は日本の植民地となりました。

溥儀 (左端)
溥儀 (左端)
(毎日新聞提供)
1933年に日本軍は熱河省にも侵攻しますが、国際連盟はリットン調査団報告をうけて、日本に撤退勧告します。しかし、日本は受け入れず、2月に国際連盟を脱退します。ちなみに、ヒトラーが政権をとったのが同年1月、国際連盟を脱退したのも同年10月でした。

リットン調査団
リットン調査団
(毎日新聞提供)

日本国際連盟脱退
日本国際連盟脱退
(毎日新聞提供)
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1-2-6 紅軍の長征
国民党から分離した共産党軍(紅軍)は、江西省と湖南省の境にある井崗山にたてこもり、1931年には江西省の瑞金に毛沢東を主席とする「中華ソビエト共和国」を樹立します。ちょうど太平天国の乱のときのように中国に二大勢力が出現します。
しかし、瑞金政府が国民党軍の包囲で支配範囲を縮小する中、毛沢東は指導力を失い、コミンテルンが指導する「留ソ派」が主流派になってゆきます。1934年に瑞金が陥落すると、その後、共産党軍はせん西省の延安に向けて移動を始めます。これが、世に言う「長征」です。
長征の途中、「留ソ派」が批判され、貴州省の遵義では、毛沢東が以後中国共産党の指揮を執ることが決められます。その後1976年の死まで、毛沢東は党の最高指導者を続けます。

長征の後、せん西省に到着した紅軍
長征の後、せん西省に到着した紅軍
(毎日新聞提供)
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1-2-7 第二次国共合作
国民党軍は延安の共産党軍に対する掃討作戦を行いますが、その掃討軍の副指令として西安に赴任してきたのが、張学良でした。
張学良軍は、日本に対しては敵意がありますが、共産軍に対してはそうでもありません。そればかりか、共産党の言う「即時抗日」のスローガンには賛同しており、両軍には戦闘意欲がありませんでした。そんな中、1936年に督戦のため蒋介石が西安に到着します。
張学良は蒋介石に共産党掃討戦を中止し、抗日に向かうように説得しますが、蒋介石は承諾しません。ついに、張学良は蒋介石を捕虜として、強引に共産党軍との休戦を実現させます。これを西安事件といいます。
1937年盧溝橋事件が起こりますが、その後まもなく蒋介石・周恩来会談によって内戦が停止し、第二次国共合作が開始されます。共産党の支配地域「中華民国特別区」として、共産党軍も「国民革命抗日第八路軍」に改められ国民党政府に編入されました。

毛沢東
毛沢東
(毎日新聞提供)

周恩来
周恩来
(UPI・サン提供)
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