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modern chinese economy
1-3. 中華人民共和国の成立
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


1-3-1 日中戦争
1937年7月に盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が始まります。ドイツ軍がゲルニカを爆撃したのもこの年です。
日本軍は1937年12月に南京を占領します。今なお議論の対象になっている「南京虐殺」事件がおきたのはこのころです。

日本軍の南京入
日本軍の南京入城
(毎日新聞提供)

日本軍は1938年10月に武漢を占領し、沿海地域の全域を制圧しました。日本軍は、都市部を抑えれば、中国は降伏するだろうと高をくくっていましたが、中国国民の民族主義意識は日本軍の想像をはるかに超えていました。
国民党政府は、南京から武漢、さらに重慶へと首都を移し、日本軍に対してはゲリラ戦で抵抗します。戦線は膠着状態になります。
1940年に毛沢東は「新民主主義論」を発表します。中国革命をブルジョア革命でもソ連型プロレタリア独裁でもない、新民主主義であると位置づけます。1945年4月末、国民党6回大会で、この民主主義政権構想をもとにした、「連合政府論」を展開します。
国力が疲弊し国民が飢餓状態に瀕しますが、1945年8月に日本は降伏します。世論は国共の平和的な統一に向かいます。10月10日に重慶で毛沢東と蒋介石の会談が開かれ、統一国家の建設が「重慶会談紀要」の中で謳われました。

毛沢東と蒋介石
毛沢東と蒋介石
(毎日新聞提供)
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1-3-2 国共内戦
しかし、両者の対立はぬぐいがたく、1946年7月には再び全面戦争に突入します。
当初は国民党が優勢でしたが、毛沢東の「人民戦線論」(人民を戦争にまきこむ)、「統一戦線論」(中間層や敵側の一部を味方に引き入れる)、「根拠地論」(党の指導下にある政府を保障する)を展開し、共産軍次第に国民政府軍を圧倒します。
共産軍は、農村で地主の土地を接収し農民に配分するという農地改革を実施します。実は1930年代に国民党は土地改革を実行しようとしたのですが、失敗しています。このとき国民には両政党の性格の違いがわかったのでしょう。
国民政府は、都市部で腐敗してゆきます。1948年に蒋介石は中華民国の総統に就任しますが、時代は彼を見放してゆきます。国民政府の官僚は資本家と結びつき、さらに外国の利益の代弁者となりました。彼らは買弁官僚資本家と呼ばれ、共産党の攻撃の対象となります。
買弁とは、もともとは貿易商のことでしたが、次第に海外と結託して国民の利益損なうものという意味で用いられます。(もっとも、現在の社会主義市場経済での中国官僚が当時の国民党官僚と似たような行動をとっていることは、なんともいえない歴史の皮肉です。これについては、のちに述べることになります。)
共産軍は1948年に瀋陽、1949年に北京、上海、南京、を相次いで占領し、蒋介石は台湾に逃れます。ここに内戦の戦局は決しました。
1949年10月1日、北京で「中華人民政府協商会議」が招集され、ここで中華人民共和国が成立します。政府主席には毛沢東、政務院総理には周恩来が就任します。
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1-3-3 建国当時の中華人民共和国
毛沢東の戦略は「統一戦線」でしたので、建国時には共産党の政権というわけではありませんでした。国民党からの寝返り組みを半分程度抱えた出発でした。つまり、1949年時点では中国はいわゆる共産主義政権ではなかったと捉えるのが妥当です。
内戦も完全には終了していませんでした。実際、内戦は51年まで続きます。この時期の内戦では後に失脚する林彪やケ小平らが活躍します。
制度として、改革すべき点は次の3点がありました。

劉小奇
劉小奇
(UPI・サン提供)

(1)封建制度
 封建制度の打破とは、農村では農地改革の継続を意味します。華北地域の農地改革は手付かず状態でしたが、1950年に「土地改革法」を公布し、劉少奇を土地改革委員長に登用し、2年を目途に土地改革の完成を目指しました。
 土地改革は「民生主義」の一環であり、具体的には自作農の創出でした。ソ連的には土地は国有であるが、中国では農民の所有であった。しかし、分配は均等割りが基本でした。この平均主義は長く中国での経済政策の原理となりました。
 このほか、都市労働者の「把頭制」の解体、婦人の解放、少数民族差別の解消などが、実行されました。

(2)買弁官僚や買弁資本家
 1951年から共産党は買弁官僚をターゲットに、反汚職、反浪費、反官僚主義を意味する「三反運動」を呼びかけます。さらに、資本家の罪として、贈賄、脱税、国有財産の横領、手抜き工事、インサイダー取引の5つをあげて非難する「五反運動」も展開します。

(3)帝国主義
 戦後の中国が言う帝国主義とは、アメリカを中心とする資本主義諸国の植民地主義や覇権主義のことを意味します。(ソ連が東欧諸国を植民地化したことは「解放」と呼びます)
 1950年6月に起きた朝鮮戦争は新中国にとっての危機でした。北の金日成は当時の圧倒的な軍事力を背景にの李承晩の南に侵攻しますが、アメリカは国連を動かし参戦します。反撃に出た国連軍(アメリカ軍)は、10月には中国との国境である鴨緑江に迫ります。このとき中国は彭徳懐を司令官として朝鮮戦争に参戦します。
 アメリカは原爆の使用や国民党軍による華南侵攻をちらつかせますが、主戦派のマッカーサーが解任され、アメリカはソ連との直接対決を避けるべく1953年には「軍事停戦協定」が結ばれます。
 この結果、中国は東西冷戦(中国の目から見れば、帝国主義との戦い)の最前線に立たされることになります。日本は、平和の中に経済再建を成しえたのですが、中国はそれとはまったく異なる、軍事的緊張化での経済再建という険しい道をたどることになりました。

以下では、1950年代以降の中国の経済建設について詳しく見ていくことにしましょう。

金日成
金日成
(毎日新聞提供)
李承晩
李承晩
(UPI・サン提供)
彭徳懐
彭徳懐
(UPI・サン提供)
マッカーサー
マッカーサー
(毎日新聞提供)
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