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2-5. 中共第8回全国大会
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


 1956年に当事のソ連共産党の書記長フルシチョフがスターリン批判を行います。レーニンの後継者であるスターリンが行った独裁・個人崇拝・残虐な粛清などを批判しました。スターリンは偉大な指導者ということになっていましたので、世界の共産主義運動に衝撃をあたえました。もちろん中国共産党も影響を受けました。

フルシチョフ
フルシチョフ
(毎日新聞提供)

スターリン
スターリン
(毎日新聞提供)

 1956年9月に開かれた中共第8回全国大会は、前回の党大会から十一年ぶりに開かれ、文化大革命期までの中国共産党体制の基礎をつくった党大会で、新中国史上のひとつの転機です。毛沢東の後継者とみなされていた劉少奇の行った「政治報告」はソ連の動きに歩調をあわせます。これは、今後の党運営を階級闘争から経済建設に重点をシフトする穏健路線への転換でした。

 そして、さらに重要なのは、フルシチョフの「個人崇拝批判」をうけて、党の規約から「毛沢東思想」という表現を削除しましたことです。ケ小平は「党規約改正」報告のなかで、集団指導を堅持し個人崇拝に反対することの重要性を説明しました。毛沢東もこの内容を承認しました。

 こうした集団指導を軸とした党国家体制の確立、生産力の発展の重視、漸進的な社会主義建設は、「八大路線」と呼ばれています。

劉小奇
劉小奇
(UPI・サン提供)

ケ小平
ケ小平
(UPI・サン提供)

この大会での党の主要人事は次のとおりです。
  中央委員会主席:毛沢東、
  同副主席:劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲
  総書記:ケ小平、

 毛沢東は「八大路線」なかでも「集団指導体制」の決定に不満でした。この決定は1943年に採択された「政策の最終決定は政治局主席の毛沢東にある」という決議を無効にするかもしれないからです。共産党大会前から、中国でも、あまりにも集権化を急ぐ当時の政治の方針を見直そうとする動きがありました。共産党は当時、色々な立場から政策を論じ、党への批判も歓迎する「百花斉放・百家争鳴」を容認していました。そこで毛沢東は、「百花斉放・百家争鳴」を大衆運動として積極的な参加を呼びかけることによって、彼の指導力を強化しようと計画します。この呼びかけに応じて、いろいろの階層の人々が共産党の指導部を批判するようになりました。

 しかし、1957年6月、毛沢東は「右派分子の攻撃に反撃しよう」と党内に指示を出し、反撃に転じます。「反右派闘争」のはじまりです。その後、政府批判をおこなった知識人階級は厳しく弾圧されました。このため、共産党内部では、もはや毛沢東の方針に反対ができなくなりました。ではなぜ、自由に批判しろといっておきながら、手のひらを返したように制裁に転じたのでしょうか。通説では、予想外の激しい批判に共産党指導層が慌てたためということだが、はじめから自分への反対者をあぶり出すことを目的としていたという見方もあります。つまり、これは毛沢東の仕掛けた罠だったようです。

 なお文化大革命中、中国共産党第8回全国大会での決議は「劉少奇が毛主席に隠れてでっちあげた」、「階級闘争消滅論を宣伝する修正主義の作文」と批判されました。
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