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modern chinese economy
2-4. 農村余剰の中央集中と重工業化への強蓄積
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


 共産党の当初の方針は、既に触れたように、地主から土地を接収し自作農を創設することでした。これは第一次国共合作当時からの方針でした。しかし、1955年からこの方針が大きく変更されました。

 理由はいくつかあるようですが、皮肉なことに、土地改革による農民の生活向上、また死亡率が低下による人口増加のため、食料が都市で不足し始めたからというのも理由の1つです。

 1953〜54年に農作物を統制下におく「強制供出制」を実施し、都市では食料を配給制にしました。供出された農作物を国有企業に集中し、製品を消費者に高値で販売すれば国家が利潤を得、そしてその利潤を重工業へまわすという方法がとられました。これが農村集団化の最も重要な理由です。

 共産党が自作農から土地を奪い集団化するのですが、村を単位にただ労働力を集団化したものを「合作社」、より大きな行政を単位とし、集団所有、集団労働、統一経営を明確にした下組織を「高級合作社」といいます。図2-6に見るように、1956年には農地はほぼ完全に集団所有化されました。

図2-6 農村の集団化
図2-6 農村の集団化

 合作社や高級合作社は、日本流に言えば、農業共同組合のような組織ですが、土地が国有である点が大きく違います。その後、高給合作社は、第3章で述べる「大躍進」期には、農村の全社会を支配する「人民公社」へと発展していきます。

 都市部でも物資の国家管理を通じて、国家が企業の経営に関与します。国家が企業化に経営を委託し、経営者は一定の配当を得るという形式だったので、「公私同営企業」といわれます。1956年末には、従来型の資本主義的な生産はほぼ完全に消滅しました。

 繰り返しになりますが、農村での生産物は完全に政府に供出されました。食料そのものを低価格に抑え、労働者の賃金も低く抑えることができました。その結果、国営企業は利潤をあげることができました。毛沢東は社会主義の建設には重工業化が不可欠と考えていましたが、その実現のために彼の革命の基礎となった農村を搾取したのです。

 ここに、毛沢東流の社会主義統一市場が完成しました。通貨は1954年12月に人民元に一本化されていました。また、1956年6月には、全国を8区域に分けて、地域内での賃金が統一されました。
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