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modern chinese economy
3-4. 対ソ緊張と三戦建設・自力更生
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


 大躍進運動は中国の国際関係にも影響を与えました。というより、大躍進運動の結果として、ソ連との関係が悪くなってしまったというのが正確かもしれません。

 ソ連のフルシチョフ書記長は、東西冷戦の緊張状態が続けば、米ソの直接戦争(核戦争)に発展しかねないということで、アメリカとの緊張緩和を探りたいと思っていました。それに対して中国は、急進的な「社会主義の道」を目指しています。1958年7月にフルシチョフが中国を訪問しましたが、このときにフルシチョフが提案した防衛構想を中国は内政干渉としてはねつけましたし、フルシチョフが人民公社化の行き過ぎを警告したのに対しても毛沢東は反発しました。さらに中ソの対立を深めたのは、1958年8月に、ソ連に連絡せず突然に中国が国民政府への攻撃を始めたことです。このときは国民政府を支援するアメリカと中国が交戦寸前の事態にまでなりました。

 1959年6月にソ連はついに、中国との「国防新技術協定」の破棄を通告します。国防新技術とは具体的には核兵器の技術のことです。つまり協定破棄は、ソ連は今後、中国が核兵器を持つことを許さないとする意思表示でした。当時、チベットの指導者ダライ・ラマの亡命を巡って、中国とインドの関係が悪化していましたが、1959年8月には中印国境での武力衝突に発展してしまいます。そこで中国はソ連の支持を期待していましたが、ソ連は中立の立場を取ったために、このとき中国指導部はソ連からの離反を決意したといわれています。

ダライ・ラマ
ダライ・ラマ
(毎日新聞提供)

 1959年9月にフルシチョフがアメリカを訪問し、アイゼンハワー大統領と「米ソの平和共存」を確認した帰路に、中国への2回目の訪問をします。しかし、すでに中ソ関係は修復できないものになっていました。1959年9月といえば、盧山での彭徳懐事件の動揺がさめてないときですが、中国指導部は彭徳懐の背後にはソ連日和見主義があると言い出す始末でした。1960年7月にソ連は中国に派遣していた1390人の技術者の引き上げと機械部品および原油供与の中止を発表します。そして、その直後、新疆の中ソ国境地帯で起こってしまいます。わずか2年の間に、中国とソ連は友好国から交戦国へと変化してしまいました。

アイゼンハワー
アイゼンハワー
(UPI・サン提供)

 中国は、東にアメリカ、北と西にソ連、南にインドと四方を敵に囲まれる異常事態に陥ってしまいます。そこで、工場立地、とくに兵器工場の立地を奥地に移すようになりました。このを「三線建設」といいます。「三線」とは沿海部を一線、江西省―湖南省―安徽省―河南省―山西省を二線とするのに対して、雲南省―貴州省―四川省―湖北省―陝西省を三線と呼びました。

 また中国は、1960年以降は有力な友好国を持たず、国際的に孤立してしまいます。こうした政治経済環境の中、経済発展を遂げようとする政策を「自力更生」と呼んでいます。

 ソ連の技術者引き上げが大躍進運動の挫折の直接の原因ですが、それ以前に大躍進運動の継続は無理になっていました。そもそも、大躍進運動の行き過ぎがソ連との摩擦の原因であり、また大躍進運動が少数民族社会を「ブルジョア民族社会」として批判したため、チベット動乱→ダライ・ラマの亡命→中印緊張という関係があります。

 こうした窮地に追い込まれたのは毛沢東の責任ですから、1962年に開かれた中国共産党拡大工作会議(俗に7000人大会)では、毛沢東は大躍進の失敗に対する自己批判を余儀なくされました。この大会で、劉少奇とケ小平は、ひとまず思想問題はおいておき、経済の再建を強く訴えました。しかし、これが劉少奇とケ小平の地位を引き上げたため、毛沢東の地位は相対的に低められました。このため、また毛沢東は自らの超越的な地位を保全するために、次の大衆運動を企画します。これを「文化大革命」といいますが、次の章でこの内容を詳しく見ることにしましょう。

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