modern chinese economy
3-3. 大躍進運動とその悲劇
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史
1957年秋から始まった大躍進運動は、農村経済を混乱させ、食糧不足により多くの餓死者を出すという悲惨な結末に終わりました。経済の混乱が、自然災害に起因するものや、景気循環のなかの一局面というのであれば、ある程度のあきらめもつきますが、大躍進運動の失敗は、戦争災害と同様に、全くの指導者の失政によるものですから、やりきれません。ましてや、中国では指導部が失政後の責任をほとんどとらなかったために、1960年代には悲劇が再現されることになります。中国の近代史を知るときに、気持ちが暗くなるのは、このあたりが原因でしょう。
農村部の経済的混乱の要因は、本来の農業従事者を農業からそれ以外のものに引き上げたためでした。これにより、女性が農業従事者になったことはすでに述べましたが、不慣れな労働者による農作業で、生産性があがるはずもありません。また、人民公社での食堂は「ただ食い」ができたわけですから、必要以上に食料を消費するという傾向も見られました。
本来の男性労働者の側は、農村の生産性の向上という名目で、大規模な水利工事や植林事業に動員されました。建設工事用の大型機械がない状況での工事ですから、「人海戦術」といわれるきわめて労働集約的な非効率な方式がとられました。また、共産主義政権では、重工業が(軍事力に関連しているため)国の生産力の根源という信仰にも似た思い入れがあるようで、いたるところで小型の製鉄所が建設されました。この製鉄所は、中国での伝統的な製鉄方法である「土法製鋼」といわれるもので、近代工業で必要とされる鉄としては使い物にならないものでした。さらにいえば、たとえ品質の優れた鉄であったとしても、その需要先を考えないで、生産側だけを先行させる計画を立てたというのは、指導者の無能といわざるを得ません。
図3-3に人口一人当たりの食糧生産量と米生産量をプロットしました。1958年から大きく落ち込んでいます。この落ち込みから回復して、1955年するのに20年近くかかったことになります。児島麗逸氏によりますと、食糧が一人あたり250キログラムを下回ると飢餓が発生し、300キログラムを超えると主食で満腹する状態、350キログラムを超えると肉や酒類の消費が急増するそうです。中国では主食で満腹になる状態は1975年以降ということになります。つまり、大躍進期から1965年くらいまでは、中国国民は飢餓水準にあったわけです。もちろん都市部の工業地域で餓死者を出すわけにはいきませんでしたので、農村部では食糧事情がいかに逼迫していたかが想像されます。
ちなみに、日本では300キログラムを超えたのは高度成長の始まった1955年ごろ、350キログラムを超えたのは1967年ごろです。
図3-3 一人当たり食糧生産
出所) 加藤弘之・陳光輝「東アジア長期経済統計 第12巻 中国」の統計データより作成
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図3-4に、石炭、鉄鋼、セメントの生産量を示しました。1958年から1960年にかけての大躍進期に、これらの生産量は瘤(こぶ)のように大きく膨らんでいますが、これが大躍進時の急拡大です。
このほかの重工業もこの時期に拡大します。
図2-3で見たように、1959〜1960年にかけてGDP中の第二次産業が急拡大していますが、これがその影響です。
図3-4 主要鉱工業生産
出所) 加藤弘之・陳光輝「東アジア長期経済統計 第12巻 中国」の統計データより作成
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工業生産量の異常な拡大と農業生産の縮小により、経済は大混乱に陥りました。工業生産の拡大といっても、作りっぱなしという状況ですので、それが具体的な形で経済成長に貢献することはありませんでした。そして、「大躍進」は歴史的な「大後退」を導き、終了することになります。
図3-5にアメリカにおける大恐慌後のGNPの推移、日本における太平洋戦争によるGNPの推移、中国における実質物的総生産(かつての社会主義国のGNPに相当します)の推移を示しています。アメリカの大恐慌後の後退では、GNPが70%程度にまで低下し、日本の敗戦によっては、GNPは半分強の程度にまで低下しました。中国の大躍進では実質物的総生産が65%程度に落ち込みました。中国の「大躍進」の失敗が、日本の敗戦の影響と大差ないほどの経済的インパクトを与えたというのは驚きです。
図3-5 GNPの低下の国際比較
この経済的混乱を主に農村地区が被ったということを、出生率と死亡率の推移から見てみましょう。餓死者の数は、とくに安徽省と四川省で多かったそうです。大躍進期の死亡率を見ると、安徽省で平年の7倍程度、四川省で平年の5倍程度にまで、上昇しています。一方で、母親の栄誉失調のため、子供を生むことができず、両省では出生率が大きく低下しました。正確な餓死者の数字はわからないのですが、1500〜4000万人といわれています。これは当時の総人口の2.5〜6.0%にもおよぶ大きさです。
ところが、大都市の上海を見ると、出生率は、傾向的な出張率低下より、やや大きな低下が見られるものの、死亡率はほとんど変化していません。ここでも都市部の住民を相対的に保護し、そのしわよせを農村部が被るという構造が見て取れます。
図3-6 大躍進期の人口異常現象
こうした状況を誰もが黙って見ていたわけではありませんでした。1959年の7月から9月にかけて、江西省の盧山で、中央政治局会議と中国共産党第8期8中全会が開かれました。これらは、開催地の場所にちなんで盧山会議とよばれています。
「彭徳懐」という名前を覚えているでしょうか。彼は毛沢東と同じ湖南省の出身で1920年代から毛と行動をともにしている同士でした。朝鮮戦争当時には義勇軍の総司令官となった国民の英雄でもありました。盧山会議当時は国防部長と国防委員会副主席の要職にありました。彭徳懐は餓死者まで出ている現実を厳しく受け止め、次のような発言をしました。
(1) | 大躍進の成果を強調しすぎて、共産党幹部が大衆から遊離している |
(2) | 経済発展の法則を無視するべきではない |
(3) | 左派の誤りを是正しにくくなっている |
(4) | 人民公社の建設は性急過ぎた |
(5) | 毛沢東の個人決定が多く、集団指導体制がない |
これらは、まことにもっともな話なのですが、毛沢東は猛然と反発し、彭徳懐とその同調者たちを、野心家、陰謀家、右翼日和見主義グループとして追放してしまいました。
それ以降、毛沢東は大躍進を修正するどころか、さらに急進的な路線=経済的破局へと進んでいきました。
次の節でその経緯を述べますが、1960年7月にソ連は、中国からの技術者引き上げと機械部品および原油供与の中止を発表します。その結果、建設中のプロジェクトが建設中止に追い込まれるのみならず、経済運営そのものが立ち行かなくなりました。
そこで、政府は次のような政策を打ち出し、危機を回避しようとします。
(1) | 建設中のものも含めて工業プラントへの投資を大幅に削減します。 |
(2) | 1958年に「戸籍登記条例」を制定し、農村戸籍住民が都市に出かけるには許可が必要になりました。でも、大躍進の建設需要のため、この制度は有名無実なものでした。しかし、1961年にこの制度を強化し、農村戸籍住民は都市では職業も食料も得られない制度になりました。 |
(3) | 農村重視の政策に転換しました。1961年には農産物の政府買い上げ価格を引き上げ、農民のインセンティブを引き出そうとしました。 |
(4) | 石油採掘に全力をあげました。ハルピン近郊で1959年に発見された「大慶油田」はそのときの慶びを表わした名前です。 |
(5) | 大躍進以前のように中央集権化を進めました。地方政府による投資を抑制するためです。 |