← 3-1
3-3 →
modern chinese economy
3-2. 人民公社の成立と社会の変化
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


 1957年に始まった反右派闘争は、1958年になっても続けられました。毛沢東は、劉少奇・ケ小平らのグループの「ソ連方式追従」を攻撃します。ソ連方式とは、「重工業を中心とする工業建設、集団所有制と全人民所有制の強化」という意味です。

 毛沢東は、この方式を「右派」だと糾弾するのですが、その主張には無理があることはいうまでもありません。1958年5月に、中共第8回全国大会第2回大会が召集されました。そこでは、毛沢東の主張する急進的社会主義化をめざした「社会主義建設の総路線」が採択されました。この方式は、まさに「ソ連方式」の強化なのですから、自己矛盾した決定だったわけです。これが、いわゆる「大躍進」の始まりです。政策の路線対立という名目で行われてきた政治闘争は、所詮は指導者間個人の権力闘争(私闘)に過ぎませんでした。そして、その私闘に大衆を駆り出したために政治経済の混乱を招いたというのが近代中国の悲劇です。


 農村部では、合作社が統合され、次々と「人民公社」として組織されました。人民公社とは、合作社より大きな行政単位で組織され、集団所有、手段労働、統一的な経営と分配を明確にしたものです。「公社」とは名前がつきますが、日本の、かつての「電電公社」や現在の「郵政公社」とはずいぶんと趣の違ったものです。地方政府組織と企業組織が一体になったようなものでした。

 土地改革は農家による地主からの土地や財産の収奪でしたが、人民公社化は政府による農家からの土地や労働の決定権を収奪することを意味しました。1958年の年末には、ほぼすべての農家が人民公社に属することになりました。

図3-2 人民公社組織率
図3-2 人民公社組織率
出所)天児慧「中華人民共和国史」岩波新書、40頁

人民公社は次のような社会的影響を与えました。

(1)女性の労働参加
男性が「大躍進」の水利事業や製鉄事業に借り出されましたので、女性が農作業を行うようになりました。女性が家から出るようになると、家事労働をする労働力が不足します。そこで、家事労働や育児労働は、人民公社に食堂や託児所を設けることよって社会化されました。

(2)教育の普及
子供の面倒を見る大人がいなくなるので、子供たちも人民公社の施設に集められ、読み書きを教えるようになりました。人民公社が学校施設を建設し、教師も雇用しました。
 いうまでもありませんが、食堂、託児所、学校などの人民公社事業の運営は、農民の拠出で実施されるわけですから、農民の負担が増大します。したがって、必ずしも農民の生活水準が上昇したということではありません。

(3)人民公社の自給自足体制
中央政府は、1957年11月以降は、国有企業の管理権限を地方政府に委譲しました。そこで各地の人民公社が、農業のみならず工業製品やサービスまでも自給する、ひとつの小宇宙を作るようになりました。
 通常意味での「近代化」とは、地域間分業や産業間分業の進展ともに封鎖孤立社会からの脱却を意味するものですが、中国ではこれとは逆の方向で進みました。その結果、各地で似たようなプロジェクトに対する重複投資が行われました。これが「大躍進の悲劇」のひとつの原因になりました。
▲ページのトップ
← 3-1
3-3 →