← 4-3
5 はじめに →
modern chinese economy
4-4. 毛沢東の死去と四人組逮捕
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


 1973年の中国共産党第10回全国大会では、王洪文が党の副主席、長春橋が政治局員兼副総理、紅青と姚文元が政治局員に就任します。これら四人組が共産党の要職を占めるようになります。

 周恩来は毛沢東と長年の関係がありその後ろ盾で権力の中にありました。ケ小平の復活も両者の合意の上で行われたといわれています。しかし、一度は走資派のレッテルをはったケ小平が政治の表舞台で活躍することに文革推進派は不快感をもっていました。

ケ小平
ケ小平
(毎日新聞提供)

 文革推進派は「ケ小平は悔い改めない走資派」と攻撃します。そんな中、1976年1月8日、周恩来がついに死去します。周恩来の死後は、国務院総理のポストをめぐって権力闘争が繰り広げられ、四人組がその地位を占めるかに思われていました。しかし、予想に反し、序列13と低位の華国鋒が総理代行に任命されました。当初華国鋒は、四人組らと歩調を合わせ、ケ小平批判運動に加担します。しかし、ケ小平の指導の下で、中国の経済は回復基調にありました。ケ小平の失脚が明らかになるにつれて、庶民はせっかく軌道に乗ってきた近代化路線が頓挫するのではないかと不安になってきます。そこで庶民は「四人組」批判の行動にでます。天安門広場に人々が集まり、周恩来首相擁護、四人組打倒を叫び始めます。

 しかし、共産党指導部はこれを反革命的行動であると判断し、民兵と警察力でこの住民運動を押さえ込みました(第一次天安門事件)。こうして、住民が始めて自発的に起こした運動は鎮圧されます。四人組は、この運動の首謀者がケ小平であるとされ、彼を再び失脚させます。

 これで権力闘争も一段落かと思われましたが、1976年7月6日、建国の元勲朱徳が死去し、そして9月9日には建国の父である毛沢東も死去します。

毛沢東
毛沢東
(毎日新聞提供)

 これを機に、四人組は紅青が党主席ポストに就くことを狙って積極的に活動します。しかし、これを阻止すべく反四人組連合が急速にできあがりました。反四人組連合は、先制攻撃が効果的とばかり、10月6日に彼らを逮捕し、四人組は権力の座から引きずりおろされました。

 しかし、華国鋒は「毛沢東の決定は全て変えない」と「毛沢東の指示には全てしたがう」とする「二つの全て」方針を提起し、文化大革命の継続を強調します。一方では、党内でのケ小平待望論に押されて、1977年にはケ小平が華国鋒、葉剣英につぐ序列3位として復活します。華国鋒は、文革継続と近代化路線のディレンマに陥ってしまいます。ケ小平としては華国鋒を追い落としたいのですが、手荒い真似はせず、文革継続は棚上げして、近代化を急ぐことにしました。体制の完全な交代は1982年を待つことになりますが、実質的は体制の転換は、1978年11月の中国共産党第11期3中全会で実現することになります。

 1978年の中国共産党第11期3中全会では、「第一次天安門事件は民衆の革命的行動」であったと、正反対の評価が下されました。四人組は毛沢東の理想を追い求めていたグループではありましたが、民衆の願いはそうしたものではなくなっていました。むしろ毛沢東主義には辟易としていたというのが真実でしょう。そうした民衆の行動が評価されたというのは、中国の国民が毛沢東主義から脱却した瞬間でもあります。

華国鋒
華国鋒
(毎日新聞提供)

▲ページのトップ
← 4-3
5 はじめに →