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modern chinese economy
4-3. 周恩来の四つの現代化路線
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


林彪
林彪
(UPI・サン提供)

 文化大革命期の2大勢力は、人民解放軍林彪派と紅青ら宣伝部関係の四人組でした。ともに毛沢東を神格化し、その以降に隠れて勢力を伸ばしたグループです。その片方の林彪が、1971年の9月13日にモンゴル上空で撃墜され死亡するというショッキングな事件がおこりました(9.13事件)。林彪死亡には諸説あるのですが、一般的に言われているのは、次のような経緯です。1969年に56年以来13年ぶりに中国共産党第9回全国大会が開かれます。このときに林彪の地位は毛沢東の後継者と党規約の中に書かれるほどにまで上昇していました。1970年に毛沢東は劉少奇失脚以降空席となっていた「国家主席の廃止」を提案し了承されていました。その直後林彪は、毛沢東は天才であると賛美し、毛沢東を国家主席にすべきだと主張します。しかし、自分が廃止を提案した国家主席に就任するわけにもいかず、結局林彪を国家主席に推薦するだろうとの読みがあったといわれています。このころから毛沢東は林彪の「毛沢東天才論」を批判し始めます。次第に追い詰められた林彪は毛沢東の暗殺・クーデタを計画しますが、その計画が漏れたためソ連逃亡を企てました。しかし、その途中に撃墜されたというわけです。

 林彪および人民解放軍勢力の衰退は、中国の政治勢力に大きな変化をもたらしました。1971年以降周恩来が政治の表舞台に登場してきます。周恩来は現実主義者です。国家の発展には、革命や階級闘争より、広い意味での「近代化」が必要だと考えていました。そのためには、アメリカとの関係改善が不可欠だと考えていました。1971年の名古屋の世界卓球大会で、アメリカ選手の一人が中国選手団のバスに偶然乗ってしまったことから、選手同士の接触が生まれ、中国がアメリカ選手団を北京に招待するという「ピンポン外交」が始まりました。そのご密かに北京入りしていたキッシンジャーと周恩来は1972年にニクソン大統領が訪中することで合意しました。1971年秋の国連総会では、中国の代表権を中華人民共和国に交代する「アルバニア案」が可決され、中国は国連に加盟します。そして、1972年2月、中国を訪問したニクソンと周恩来は、次の共同コミュニケを発表します。

ニクソン大統領(右) 訪中
ニクソン大統領(右) 訪中
(UPI・サン提供)

周恩来
周恩来
(UPI・サン提供)

(1) 両国間の体制の相違を相互に認め、平和共存する。
(2) 両国ともアジアでの覇権を目指さない。
(3) 中国は1つであり、台湾はその一部だということをアメリカが認める。
(4) 米中の関係正常化は世界の緊張緩和に貢献する。

 かつて、フルシチョフがアメリカとの緊張緩和を目指したときに、ブルジョア主義と非難した中国ですが、それからみると中国は様変わりしました。毛沢東は近代化に強い意志を持っていました。1975年に開かれた、第4期全国人民代表会議で周恩来は「政府報告」を行い、「今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の全面的な近代化を実現し、中国の国民経済を世界の前列に立たせる」と宣言しました。この宣言を「四つの近代化」路線といいます。

 実はこのころには既に周恩来はがんに侵されており、代わって執務を執るようになっていたのは、復活したケ小平でした。周恩来は76年に死亡します。


 周恩来の四つの近代化路線は、かつて劉少奇・ケ小平によって進めようとした路線と同じです。それが大躍進と文革で打ち砕かれてきたわけですが、今回も文革「四人組」の抵抗にあいます。

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