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modern chinese economy
6-5. 経済自由化と政治自由化の相克:天安門事件
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


 1976年4月5日、周恩来首相追悼と文革を批判する集会が北京の天安門広場で開かれ、それが暴徒化、軍隊による鎮圧事件が起こりました。この事件を「第一次天安門事件」と言います。ところが同じようなことが13年後に起こるのです。

 中国は移行経済としては比較的早い1978年から市場経済化の途を歩み始めました。しかし中国と異なり、同じような社会主義計画経済を放棄しつつあった旧ソ連・東欧では、経済自由化よりも政治の自由化が先行します。こうした国際環境の下、中国でも学生を中心として反腐敗、共産党一党独裁に反対する民主化要求が高まり、それが1989年6月の天安門広場での集会でピークに達します。

 しかし、実質的な指導者であるケ小平の頭の中には、「自由」とか「民主主義」という西側の概念は全くありません。中国共産党は人民解放軍の動員による武力によってこの民主化勢力を鎮圧します。これが「六・四事件」、通常「天安門事件」と呼ばれているものです。なお、1976年の第一次天安門事件と区別するために、1989年6月4日のそれを「第二次天安門事件」とも呼びます。人民解放軍という国民の軍隊(元々は中国共産党の軍隊)が同じ国民に発砲し、死者が出たということは大変なショックです。結局のところ中国の自由化は経済の分野に限定され、政治面での自由化はこの第二次天安門事件によって完全に封印されてしまいました。

 しかし、その余波は余りに大きすぎました。民主化弾圧との国際批判の嵐が吹きあれ、アメリカ・日本・欧州はすべて「経済制裁」に踏み切ります。そのため中国の成長は完全にストップすることになるのです。そして再び、中国は社会主義か資本主義かの「姓資姓社」論争が台頭しました。こうした不安定な時期に、上海市共産党書記であった江沢民が総書記として新たに抜擢されました。現在の中南海では支配的地位を占めている上海閥ですが、ケ小平が事実上の院政を敷く北京に現国家副主席の曽慶紅ただ一人の腹心を伴っての心細い旅立ちであったと言われています。

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