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modern chinese economy
6-4. 中国の景気循環とインフレーション
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


6-4-1 イデオロギー循環から景気循環へ
 建前上、社会主義計画経済では景気循環はないことになっていますが、既に説明したように、計画の時代において中国は時に大きな景気変動を経験しました。その最大の要因は政治による経済変動です。毛沢東が「・・運動」という大風呂敷を広げると、社会が皆右へならえです。そしてそれが悲劇的結末を迎えると、今度は強力な「整理・整頓」政策が展開されました。

 こうした中国の景気循環は、改革・開放後も活き続けていました。図6-6は中国のインフレ率と実質経済成長率の推計値です。建国期ならびに大躍進期を除いて中国の物価は計画の時代において非常に安定していました。国家が統制していたからです。しかし1980年の洋躍進期に始まり、中国のインフレ率は波を描きながらも90年代央まで加速的に上昇します。そして同時に、実質経済成長率のフレで示された激しい景気循環が現れました。

図6-6 中国の実質経済成長率とインフレ率(対前年同期比)
図6-6 中国の実質経済成長率とインフレ率(対前年同期比)
注)
インフレ率は消費者物価指数の対前年同期比上昇率、1987年以前は年次データより推計した。四半期実質GDPはT. Abeysinghe and R. Gulasekaran, Quarterly real GDP estimates for China and ASEAN, mimeo, 1999の推計値を、1998年以後は公式統計を使用した。

資料)
国家統計局編「中国統計年鑑」、IMF, International Financial Statistics CD-ROM.

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6-4-2 中国経済の貨幣経済化
 このように中国は1994年まで「ストップ・アンド・ゴー」を繰り返してきました。その背後にある要因として、中国の「貨幣経済化」の進行という事実を見逃がすわけにはいきません(図6-7)。一般に経済発展に伴い金融の仕組みが複雑化し、金融仲介機関を介した金融システムが拡大していくものです(この現象を「金融深化」と言います)。計画期の中国では、国家による強制貯蓄により一般家計が貯金する余裕はほとんどありませんでした。例えば1978年時点における中国の貯蓄の60.3%は国家によるものであり、家計のそれは僅か4.8%しかありませんでした。ところが強制貯蓄の時代が終わり、自由な交換・貯蓄が可能となった改革・開放後では、交換・貯蓄手段としての貨幣の役割が重要となります。その流通を司るのが銀行システムであり、中国もこの新しい銀行システムを構築していくのです。しかし、1993年までの中国の通貨管理システムは混乱を極めていました。

 図には同時に、M1(対GDP比)のトレンドからの乖離が示されています。明らかにこの指標は、1990年代前半まで中国の景気循環、ならびにインフレーションと同調して動いています。実は中国のインフレーションは、この通貨管理の仕方のまずさによるところが大きいのです。あるいは、形式上はともかく、当時の中国には「中央銀行システム」が存在しなかったこと、その裏返しとして、いわば「貨幣が分権的に供給される」仕組みになっていたということです。

図6-7 中国の金融深化
図6-7 中国の金融深化
注)
M1は現金と要求払い預金の合計、M2はそれに普通・定期預金を加えたもの。マーシャルのkとは貨幣残高をGDPで割った比率。トレンドの推計にはHodrick-Prescott filterを使用した。

資料)
中国金融学会編「中国金融年鑑」各年版、ADB, Key Indicators of Developing Asian and Pacific Countries, various issues.

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6-4-3 第一次金融改革:「撥改貸」の全面展開
 より具体的に説明すると、計画期の中国では、都市の国有企業には運転資金・投資資金をほぼ全額国が無償で配分する仕組みでした。しかし1981年よりまず投資資金を銀行経由で貸出す仕組みが導入され、1985年にはこれが運転資金を含めて全面的に銀行経由で供給される仕組みに変わっていきました。なお、こうした改革を「撥改貸(撥は財政資金、貸は銀行融資の意味なので、財政資金を銀行融資に改めること)」と言います。具体的には、1984年において人民銀行や財政部の下部機関であった中国農業銀行、中国工商銀行、中国建設銀行、中国銀行の四つの銀行が独立し、中国流の「間接金融」の仕組みが一応確立されました。しかし、当時の銀行は「商業銀行」ではなく「専業銀行」と呼ばれていたように、商業ベースでの営業は行われておりません。特に重要であったのはヤミ市場が出現したこと、そしてこれら銀行が多くの「政策融資」を実施していたことです。

 他方、より根本的には、銀行の資金源が預金だけでは不足していたという事情があります。図6-8によると第一に、1993年まで中国の銀行貸出が預金を上回っていることが分かります。つまり、中国において85年から銀行を経由した間接金融の仕組みが始動しますが、実は1994年まで貸出に必要な資金が預金だけでは不足していたのです。第二に、その資金不足を補っていたのが人民銀行であったということです。実際、当時の人民銀行の銀行に対する貸出は中国のGDPの25%に相当する膨大な額でした。ということは、当時の貸出しのかなりの部分は、中央銀行である人民銀行の輪転機によって賄われていたことになります。

 ところがそのお金の管理の仕方が問題でした。というのは、当時、90%の国営企業は地方政府の管轄、そして銀行の地方支店はその地方政府の言いなりだったからです。人事権が地方政府にあったからです。その結果、資金が必要であれば地方政府の強い影響力が行使されます(その貸出しは「政策融資」と呼ばれています)。そして肝心の人民銀行の地方支店も地方政府の影響下にありました。いくら北京の本店で資金供給を制限しようとしてもうまくいきません。つまり、金融システムが中央銀行の一元的な管理ではなく、政治によっていわば分権的に運営される構図です。

 ですから景気が上向くと、ほぼ自動的に資金が供給されてゆきます。その顛末が「インフレーション」です。インフレーションとは通貨価値が下落する現象であり、お金の需要に比べてお金の供給が過剰となることに主たる原因があるからです。しかしインフレーションは庶民の敵、それが昂じると今度は国務院等の中央からの行政措置による強力な引き締めが開始されます。それで資金供給がストップすると途端に景気が悪化し、再び中央の締め付けが緩くなります。不況も庶民の敵だからです。このようにして1984年からの10年間、中国は激しいインフレ・デフレを繰り返すことになるのです。

図6-8 中国の銀行バランスシート
図6-8 中国の銀行バランスシート
注)
自己資本等を無視すると、貸出+預金準備=預金+人民銀借入という関係がある。

資料)
中国金融学会編「中国金融年鑑」各年版、IMF, International Financial Statistics.

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6-4-4 第二次金融改革:分権的貨幣供給システムから中央銀行システムへ
 少し時間は後になりますが、こうした中国の欠陥はインフレーションが極度に進行した1993年を転機に修正されていきます。まずヤミ金融の温床となったコール市場が閉鎖され(1996年より再開)、行政措置により強力な金融引締めが実施されました。そして翌1994年1月には財政・為替レート改革とともに金融改革が実施されます。なお、この1994年金融改革は通常、「第二次金融改革」と呼ばれています。

 具体的には専業銀行を「商業銀行」へ転換させ(翌95年の商業銀行法の公布・施行からスタート)、同時に、中国農業発展銀行や交通銀行、中国輸出入銀行等の政策融資を専門に行う銀行が設立されました。つまり政治がからむ融資を銀行業務から分離し、専業銀行を「商業銀行」へ転換させようとの狙いです。また、ヤミ金融の温床となっていた多くのノンバンクが整理されていきます。さらに95年には「中央銀行法」が公布・施行され、中央銀行としての人民銀行の役割が強化されるとともに、人民銀行の支店網組織も大幅に改善されていきます。中国に初めて「セントラル・バンキング」が確立されたのです。

 しかし、1995年の商業銀行法施行までに国有銀行はあまりに多くの政策融資を実施しすぎました。おそらく当初は「お金のコントロールは国が」との発想の下で「間接金融」への転換をねらったのでしょうが、中国の銀行システムは実態的には国有企業の巨大な救済機構に変質してしまったと言わざるをえません。

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