表II−1は、筆者が『ボクには殺せない』を制作するにあたって歩んだ、過程である。表内のアルファベットと、表以下で記述している文章とはリンクしている。
(1)きっかけ 映像作品を作るにいたった経緯は、2003年3月、私のドイツ人の友人のトーマス・オルセン君14(Thomas Olsen)からの一本の電話がきっかけである。その時話したたわいもない会話の中で、ドイツの兵役制度のことを知った。当時彼自身も、兵役制度をどうするか悩んでいると言う内容だったと記憶している。第一章の「ドイツ・兵役制度」で述べたように、文化的、歴史的にいくつもの共通点が見出せるドイツと日本。しかしその根底には「兵役義務」という大きな違いが存在し、そのことが両国の若者の精神形成に多大な差異をもたらしている・・・、ということに気づいたのもこの時である。私と同世代の友達が個人と国家との間で、兵役に就くか、兵役を拒否するのか、兵役を拒否した場合どこでどのような代替役務を行うのか、悩んでいることを聞くと、どうしても人事と思えなかった。当時は兵役と言えば戦争・軍事力と結びつけて考えてしまいがちだったため、兵役に就く人は、運動神経が抜群で、誰もが争いに抵抗なく戦士として戦う意志を持っている人が兵士になるものだという一種の固定観念をもっていた。逆に兵役を拒否する人々は、争いを拒否し、戦争そのものも拒否する意志を表明している人のことだと考えていた。本当に私が考えていたような思いや思想的理由で選択を行っているのか、その中で若者達はどのように“生きよう”としているのか自分の目で見てみたいというのが、この作品を作るきっかけだった。 photoII- 1 作品を制作するきっかけとなったトーマス君(左)・筆者(右) (2000年3月27日 ドイツ市内の高校にて撮影)
トーマス君からの電話後、上記のように感じた私は2004年4月から、「ドイツの兵役制度」の文献を探し始めた。主に日本と海外の新聞・雑誌・論文のデータベース検索を中心に行った。同時にサブツールとして、インターネット検索を行った。新聞・雑誌・論文等のデータベース検索によって集めた資料は、学術的に信頼できると考えた。もちろんそこで得た情報をうのみにしていたわけではないが、疑いつつも“兵役制度”の概要を掴もうとした。サブツールとして使用したYahoo!やGoogle等の検索エンジンは、ドイツで兵士として、兵役拒否者として、そして日本の社会福祉で兵役拒否者として実際に“今”活動しているドイツ人青年を探すためである。映像作品を制作したいとは考えていたが、この時点ではまだ、この件をテーマとした映像作品を本格的に制作することになるとは思ってもいなかった。映像制作は、私にとって“夢のまた夢”でしかなかった。現実問題、撮影・編集技術もない、映像に興味のあるただの学生(筆者)にとって、制作費用、制作後の事等、明るい見通しは何もなかった。
2003年の9月、ロケハンへ行った。ドイツのトーマス君の“生の声”を聞くためである。当時彼は、身体の疾患から兵役制度そのものを免除されたにも関わらず、自ら進んでボランティアとして就労の場を見つけ、働き始めたばかりだった。ロケハンの期間は1週間、彼の自宅を訪問すると共に、彼と観光名所を廻った。その中で、機会を見つけるごとに、兵役制度のこと、ドイツの若者にとっての制度の捉え方などのヒアリングを行った。また、彼の母親であるオルセン・昌子(46歳)さんからは、兵役に就かなければならない息子を持つ母の気持ちや、親の立場から見たドイツの兵役制度についても多くを話していただいた。彼女は日本で生まれ、ドイツ人と結婚し、現在ドイツに在住している。3人の娘と息子がおり、トーマス君はその一人である。 photoII- 2 兵役制度と生きる家族(2003年9月撮影) photoII-3 ドイツ・ケルン市の駅にて(2003年9月撮影)
現地へ行き兵役と共に生きる若者を見て、彼らの声を聞いた私は、帰国後、地方新聞やミニコミ誌にいたるまでリサーチの幅を広げた。ドキュメンタリーを撮るということを前提にしていたため、資料が少なからず見つかったとしても、テーマに相当する取材対象者の現時点での存在がなければ、制作に移れない。 見つけた神戸新聞には兵役制度を拒否し、ドイツから代替役務を行いにやってきた、という内容と受け入れている兵庫県生野町の「いくの喜楽苑」の名が掲載されていた。インターネットを使って「いくの喜楽苑」のホームページを閲覧、この福祉施設そのものの活動の様子の概観を把握しようと試みた。日本でドイツの兵役拒否者を受け入れている施設が社会福祉施設だった為、「介護サービス」、「高齢者施設」に関する文献16までも、目を通した。その後、「兵役制度に興味がある」ということで、電話で「いくの喜楽苑」へ施設の見学と働きに来ている兵役代替役務者と話がしたい、という依頼をした。快く見学依頼を受け入れていただくことができ、2003年11月15日それが実現した。その頃はまだ、「兵役制度」をテーマとした映像作品を制作しようと考えている意向は、「いくの喜楽苑」には伝えていない。まずは、私自身を知っていただき、「兵役制度」をどのように考えているのか、という相互の信頼関係を持つことに専念した。「いくの喜楽苑」では、2000年から兵役代替役務者を受け入れ、それまで8人の代替役務者がいたことなど、事務長からお話を伺った。また、番組にも出ていた、パウル・コブルカ君17(Paul Coblca)と初めて会ったのもこの時である。この段階で一度ラフなたたき台としての企画案を作成し、同時に仮タイトルを決めた。それが以下のものである。
(仮タイトル)「ボクには殺せない」
ものを壊し、人を傷つけ、さらには自分が殺されることを「仕事」とする兵士。ドイツには満一八歳以上の男性には十ヶ月の兵役義務がある。つまり、ドイツの若者達は、満一八歳までに「人を殺すことができるか、または殺されることができるか」を真剣に考えなければならない。憲法で認められた拒否権を行使すれば国内外での10〜12ヶ月間の奉仕活動で代替できる。以前は「弱虫」、「共産主義者」として非難されてきた彼らも、今では「良心的兵役拒否」というドイツの一般兵役義務の中の一選択肢として、ドイツ国内で広く受け入れられるようになった。このような「一般兵役義務」の質的変化は、ドイツの若者たちにどのような意識的変化をもたらしたのだろうか。 ホロコースト・ナチス・第三帝国時代・ベルリンの壁...。ドイツの持つ暗い歴史。「兵役拒否」、それは過去との決別の、そして荒んだ世界潮流へのシグナルなのかもしれない。戦争そのものへの拒否が良心的兵役拒否の究極の姿であるともいえるだろう。事実、平成13年の米国での同時多発テロ以降、拒否をする若者が増えている。兵役代替役務として日本へ奉仕活動をしに来ている兵役拒否者を取材することで、今のドイツの若者たちの既成の価値観、意識の変化を映し出し、改めて視聴者一人一人に、「多様化する社会」のありようを問いかけたい。 (2003年11月筆者作成:企画案エディット1)
「いくの喜楽苑」へのロケハンから戻ってきて、本格的に企画提案書の作成に入った。兵役代替役務者を中心に、番組のストーリーを組み立てていくのか、兵士や代替役務者を織り交ぜながら構成するのか、兵役制度に関する情報だけでなく、番組自身の構成も考えながら、エディット7にいたるまで企画を考えた。その作業には京都文教大学の坂上香先生にご指導いただいた。テレビ局に企画書を提出しようと考えていた時期が、イラクへの日本自衛隊派遣が世間をにぎわせていた。軍事色の強いダークな企画として捉えられたくなかったため、「兵役」と言う文字の使用をあえて控え、今回は兵役制度で4人の青年が置かれている境遇を軸に、ドイツの若者の選択・生き方をフィ−チャーするような企画内容にした。兵士・ドイツで兵役に替わる活動をしている人・日本で兵役に替わる活動をしている人・そして兵役が免除になって自由意志でボランティア活動をしている若者の4人である。
2004年1月13日。企画採択の報告がテレビ局のプロデューサーから入る。1月22日、テレビ局にてプロデューサーと打ち合わせを行った。実際にどの範囲まで、映像作品として制作が可能なのかという質問に始まり、現段階での構成予定や、プロデューサーが求める番組完成予定・オンエアーの日にちに至るまで一時間に渡り打ち合わせを行ったという記録が当時の手帳に書き込まれている。ドイツ連邦国軍への取材依頼に関しては、国防ということに敏感な時期である点も踏まえて、慎重に行うようご指摘を受けた。 打ち合わせ後、兵役制度に新たな動きがないかどうか、もう一度リサーチをかけた。同時に、電話・FAXなどで取材対象者に取材依頼を行った。この段階では、兵役を拒否して日本で社会奉仕活動を行っている福祉施設、「いくの喜楽苑」、ドイツ人の友達に頼んで兵士、兵役拒否者の紹介依頼、そしてドイツ連邦国軍に電子メールにて依頼をしている。「いくの喜楽苑」へは、それまで、映像作品を撮りたいということを、一切私の口から言っていなかったため、ここで初めて、施設の中に撮影のためのビデオカメラを持ち込みたい、と取材の依頼を行った。施設の中へ、カメラを持ち込むということは、施設内の入居者の方々の取材許可・プライバシーの問題に関わることとなる。「いくの喜楽苑」は、入居者の方々のプライバシーに他のどの施設よりも、注意を払っていることはロケハンに行った際に、身をもって感じていた。また集めた文献18やホームページ19にもそのような記述が多くみられた。したがって、私にとって「いくの喜楽苑」への取材依頼には細心の注意を払ったつもりであるし、取材依頼書にもその故をあえて記述した。
その結果、心配していた「いくの喜楽苑」から無事取材許可を得ることができた。高校時代に、私がドイツにホームステイをしていた時の、ホストブラザーにお願いしていたドイツの兵士もなんとか見つかりそうだということで、航空券を購入し本格的にドイツへの海外ロケの準備に入った。同時に「いくの喜楽苑」へのロケ日時を設定するため、取材日時依頼書を用いて事務長と具体的なロケ日を決めた。
ドイツ国民である以上、誰もが行わなければならない兵役義務をどのように青年たちはそれを受け入れて、どのような考えのもと、行っているのかという“生の声“を視聴者に聞かせること、そして兵役義務を通じて10代の若者を描きたい、というのが今回のコンセプトである。もちろん、兵役制度をテーマにすると、いやおうなしに軍隊・自衛隊と結びついてしまう。今の世界情勢についてもう一度考えるきっかけを提供するというねらいで、撮影に入った。 photoII-4 実際の現場の様子(2004年2月10日撮影) photoII-5 岩佐祥子さん(左)・筆者(中央)・呉真之さん(右)の3人で(2004年2月11日撮影)
2004年2月17日から27日の10日間、単身ドイツに海外ロケへ行った。ドイツでの取材先は7件だった。(1)兵士のマークス・プラーチ君21(Marks Plarch)、(2)リハビリテーションセンターで病室の清掃や食事の準備などを行っている兵役代替役務者のニルス・シュべージッヒ君22(Nils Schwegich)、(3)ビンツェンツ・パッロッティー総合病院外傷外科で看護アシスタントとしてカルテの整理などを行う仕事をする兵役代替役務者のマイケル・クック君23(Michel Coock)、(4)お年寄りとの話し相手や散歩の相手をしている兵役代替役務者(記録喪失)、(5)兵役そのものを免除され障害者施設でボランティアとして食事・入浴など生活の補助をするボランティアのトーマス・オルセン君、(6)10ヶ月間の兵役活動後、職業として兵士になった職業軍人のヤン・ニクラス君(Jen Niklas)、(7)5人の兵役制度を経験済みのドイツ人青年に集まってもらってのディスカッションであった。
滞在先に電話したところ、あなたはもう日本へ帰ってしまわれたのこと。ドイツに滞在されている間にコンタクトを取ることができなくて、とても残念です。しかしながら、あなたからの依頼が今日私の元へ届きました。もう一度渡独されるということでしたら、軍服を着た兵士へのインタビュー場所を軍隊基地内でセッティングします。 (ドイツ連邦共和国軍広報担当者から筆者へ宛てたeメールの抜粋)24
兵士の他に、(2)のリハビリテーションセンターで兵役代替役務を行っているニルス・シュべージッヒ君の仕事風景を2時間という時間限定で取材を行った。押しかけ女房ならぬ、押しかけ日本人ビデオ小僧的な立場に戸惑いを感じた。カメラを回すということは、撮影する側・撮影される側という享受関係が成立した後に、始められるものであると考えていたし、それまでの国内でのロケでも実感していた。大学での講義において、耳にタコができるほど、この件について聴講したし、文献も読んだ。しかし、“知”だけでは解決できない状況に遭遇した当時、私の心は揺れた。素材を撮ることができなければ、いくら彼らから新しい“生”の情報を得たとしても、映像作品は作れない、視聴者に伝わらない。今まで学習してきた教科書通りの、信頼関係が作れるまでカメラを置くか、それとも撮るか。2時間しかないロケ時間の間で、いかにニルス君と心通わせられる関係を作るか、プランを練った。「既に、撮影しても構わない、という許可は数日前に得ているのだから」とこのことを自らに言い聞かせ、カメラを回した。あの時程罪悪感でビデオのRECボタンを押したことはない。まずはじめの一時間は取材対象者に任せて、彼がどのような人柄であるのかを掴む努力をした。同時に、お互いの共通点を探しながら、兵役制度に関係ないことであっても、カメラを回しながらつたないドイツ語と英語を用いて世間話を行い、彼に“私”自身を知ってもらうきっかけをつくった。その過程を経て、築いた関係を元に、今度は私が本題の「兵役制度・兵役代替役務」についての質問をそれまでの会話の流れや口調と変わらないように行った。 photoII-6 マイケル・クック君 photoII-7 トーマス・オルセン君 photoII-8 ヤン・ニクラス君 (4)お年寄りとの話し相手や散歩の相手になる仕事をしている兵役代替役務者は、インタビューは拒否されたが、仕事風景を撮影するだけなら構わない、ということでロケをさせてもらった。(5)兵役そのものを免除され障害者施設でボランティアとして食事・入浴など生活の介助をしているボランティアのトーマス君(photoII-726)。彼の働くWBM(ドイツ語で障害者の家の略)での彼の仕事風景を撮影させてもらえた。彼は、私がドイツへ行く前までに、既に彼の働く障害者施設内の入居者の両親宛で取材許可をとってくれていた。 (6)職業軍人として働くヤン君(photoII-827)には、兵役代替役務者が年々増加していく中、兵役義務が終了した後も兵士になる決意をした要因を中心にインタビューを行った。“兵士としての生の声”を聞く機会が少なかったこともあり、「あえて言うならば、兵役制度反対派」だった私にとって、私自身の考えに幅を持たせてくれた。「誰も人を殺そうなんて思って、兵役になんか就いていないよ。」「ドイツは戦争には参加しない国だってわかっているからこそ、兵役に就くことができるんだよ。身体的にも肉体的にも自分を追い詰めることができて、自分をより成長させることができる場所が偶然軍隊だった、ということ。」28この頃から、私がイメージしていた「兵役制度」とドイツの若者たちが考えているそれとの間に、大きな溝があることに気づき始める。 (7)5人の兵役制度を経験済みのドイツ人青年に集まってもらってのディスカッションでは、カメラを回し、こちらから質問を浴びせるということよりも、彼らの意見や考えを聞く場として用意した。今まで読んできた「ドイツの兵役制度」についての文献(参考文献を参照)を超えた新たな発見を少しでもしたいという狙いだった。この時点でようやく数々の取材対象者のインタビューで話を聞き、彼らの行動を見て感じとっていたことが点から線へと変わり、線からぼんやりとした「兵役制度」という肖像が私自身の中に宿り始めた。 2004年3月2日ドイツから帰国後、再度「いくの喜楽苑」へロケに行った。これは前回行った時の取り残しを撮るという予備日としてと、私自身ドイツへ行って制度の現況を見てきた後では、それまでの考えが変わるかも知れない、ということからこの日を一日設定した。以前までの撮影で撮り貯めたVTRには、それまで私が考えていた制度そのものや、若者の考えに基づいた質問に答えるパウル君とミハエル君の姿が収められている。しかし、私の中での「兵役制度」の変化に伴って、行うべき質問がまだまだあった。追加取材を行わなければ、番組のストーリー成立に支障をきたしかねかった。三回目の訪問となると、入居者の方々との関係も築け、ビデオテープが回っているのにも関わらず、「お兄ちゃんらのためにゆで卵ゆでてきてあげたから、これ食べ」と手渡された3つの卵。またある時は、足音やカメラブレをなくすために、スリッパを履かず靴下のみで撮影をしていた私たちに、「兄ちゃん、足冷えるからスリッパ履きよ」とわざわざスリッパを持ってきてくれた。このように、信頼関係形成の結果が目に見える形で現れたことに、喜びを感じた。
撮影したVTRを編集した作業工程は以下の通りである。(1)撮影したテープ、33時間分をすべて見てのノートおこし。(2)ノートおこしで作成したノートを基に、数ある素材の中から、作品で使用したい箇所を選び出し、パソコンでキャプチャー[パソコンにデジタル化させた映像を取り込む作業のこと]する。(3)Adobe「Premire6.5」という編集ソフトを使用して、映像を“切る・つなぐ”を繰り返し、一本のVTRに仕上げる。(4)取材対象者の話す、英語・ドイツ語に適切かつ簡潔な日本語訳をつけテロップを入れる。ここでは、できるだけ取材対象者の話すコンテクストに則って翻訳する努力をした。前項の写真は、番組制作で用いたファイル・ノートの一部である。編集作業中は、京都文教大学の坂上香先生をはじめ、甲南大学の北原先生、そして京都市視聴覚センター技術員の竹田京二先生にアドバイスをいただいた。 幾度となく、作品構成を練り直し、映像をつなぎ換える作業を繰り返した後、出来上がった映像の流れに沿ったナレーション原稿を制作した。この番組の放映時間は30分。その中に3度に分けてCMが入ることになっていた。よって私が制作する本編も3つのブロックに分け、CMとのつなぎ部分とそれぞれの内容と時間との格闘だった。時間との制約と、作品の内容とに苦慮しながら最後の仕上げを行った。その後、2003年3月23日、東京・赤坂にあるスタジオ「株式会社NEO P&T」でナレーションの収録を行った。小玉敏樹さん・中田真理子さんにナレーション・翻訳吹き替え文を読んでいただいた。収録にはテレビ界の第一線で活躍されている録音のプロである、森英司さんと富永憲一さんにもお手伝いいただいた。京都文教大学の坂上香先生には、収録日時の設定、ナレーター・スタジオの手配などすべて行ってくださった。大変感謝している。 photoII-10 ナレーション収録スタジオ風景(2004年3月22日撮影) photoII-11 番組の一部29
つなげ終わった映像にナレーション音源・BGMを編集し追加した後、完全パッケージに仕上げ、テレビ局で2004年3月28日、プロデューサーと共に試写を行った。ここでは、テレビとして放映できるクオリティーに仕上がっているか、また使用した音源の著作権の確認と肖像権の確認も兼ねていた。その時、視聴者によりわかりやすく作品を提示するためにも、作品内で私が取材対象者へ質問をしているシーンに、質問内容を文字化したテロップを入れるように、という指示があった。この点の修正を行い2004年4月1日納品。こうしてようやく、放映日が4月9日と決定した。
2004年4月9日、上記のプロセスを経て『ボクには殺せない〜ドイツ・兵役制度と生きる男たち〜』は、在阪テレビ局の深夜1時30分から2時の番組枠で、放送された。
14 ドイツ・ケルン在住。18歳。ドイツ人の父と日本人の母の長男として生まれる。ギムナジウム(註‐7参照)を卒業し、兵役制度に悩んでいた(2003年度当時)
15 古山順一「ドイツの若者たちが選んだ道―−兵役拒否して日本で福祉−」『AERA』 2001年4月16日、朝日新聞社、 p.46-47 16 「「個室型特養」にゆとり」『日本経済新聞』2002年2月4日(夕刊) 第11面 「全室個室でユニットケア型・特養に登場」『日本経済新聞』2001年12月30日(朝刊)第23面 「酒 楽しめる特養続々」『日本経済新聞』2003年5月11日(朝刊)第29面 辻村禎彰 『真の公的介護保障をめざして』1998年6月15日第1刷 あけび書房株式会社 17 ドイツ・ミュンヘン出身の19歳。兵役制度を拒否した後、NPO「独日平和フォーラム」が仲介役となり、「いくの喜楽苑」へ兵役代替役務を行いに来ている。(2004年当時) 18 「「個室型特養」にゆとり」『日本経済新聞』2002年2月4日(夕刊) 第11面 19 尼崎老人福祉会 喜楽苑ホームページ http://www.kirakuen.or.jp/(2003年10月閲覧) 20 ドイツ・キール出身の19歳。(2004年当時)パウル君同様の方法で活動中。 21 ドイツ・ケルン在住の19歳。ギムナジウム(註-7)を卒業後、兵役についている。 22 ドイツ・ケルン在住の19歳。ギムナジウム(註-7)を卒業後、兵役を拒否し代替役務を行っている。 23 ドイツ・ケルン在住の19歳。レアルシューレ(註-6)を卒業後、兵役を拒否し、代替役務を行っている。 24 広報担当者氏から筆者へ宛てたE-mail. “TV-Projekt Japanisches Fernsehen zu Wehrpflicht” 28 Feb, 2004. 25 彼が働く病院で、ロケを行った時のVTRから引用。 26 彼の働く障害者施設で、ロケを行った時のVTRから引用。 27 彼の自宅にてインタビューを行った時のVTRから引用。 28 ヤン・ドリュング君へのインタビューより抜粋(2004年2月24日実施) 29 番組の一部より引用 |