社会調査工房オンライン-社会調査の方法
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4-5 映像制作の現場から(甲南大生体験記)
4-5-2 制作プロセス

表II−1は、筆者が『ボクには殺せない』を制作するにあたって歩んだ、過程である。表内のアルファベットと、表以下で記述している文章とはリンクしている。
日 付過 程
2003年4月〜9月リサーチ(日本の新聞・論文・雑誌をデータベース検索、インターネット検索)(a)
2003年9月ドイツ・ケルンで現地調査(情報提供者と直接会う)(b)
2003年10月リサーチ(現地での情報を元にさらに検索)(c)
2003年11月リサーチ(電話・FAXなどで取材対象者とコンタクト開始)(d)
ロケハン(日本の福祉施設の見学・実際の仕事の様子を観察)
企画案を作成(仮のタイトルとA4程度のラフな企画内容)(e)
2003年12月番組企画書を作成(テレビ局に提出)(f)
2004年1月企画採択の報告が入る。(g)
リサーチ(電話・FAX等で取材対象者・取材対象施設に取材依頼。ドイツ連邦国軍に取材依頼)
2004年1月下旬取材対象者・取材対象施設から許可がおりる。(h)
ロケ準備(スタッフと機材の手配、予定表作成、航空券購入)
2004年2月ロケ(日本の福祉施設:2/10、2/13の2日間、録音マンとアシスタントと計3人で取材)(i)
ロケ(ドイツ:2/17〜2/27の10日間、1人で取材を行う)(j)
2004年3月 ロケ(日本の福祉施設:3/2)(k)
2004年3月上旬 プレビュー(合計33時間のテープを見てノート作成)。翻訳・オフライン編集。試写。(l)
2004年3月下旬仕上げ(ナレーション撮り、音響効果、MA作業)(m)
2004年4月放映。(n)
表II- 1 (『ボクには殺せない〜ドイツ・兵役制度と生きる男たち〜』の場合)
(1)きっかけ

 映像作品を作るにいたった経緯は、2003年3月、私のドイツ人の友人のトーマス・オルセン君14(Thomas Olsen)からの一本の電話がきっかけである。その時話したたわいもない会話の中で、ドイツの兵役制度のことを知った。当時彼自身も、兵役制度をどうするか悩んでいると言う内容だったと記憶している。第一章の「ドイツ・兵役制度」で述べたように、文化的、歴史的にいくつもの共通点が見出せるドイツと日本。しかしその根底には「兵役義務」という大きな違いが存在し、そのことが両国の若者の精神形成に多大な差異をもたらしている・・・、ということに気づいたのもこの時である。私と同世代の友達が個人と国家との間で、兵役に就くか、兵役を拒否するのか、兵役を拒否した場合どこでどのような代替役務を行うのか、悩んでいることを聞くと、どうしても人事と思えなかった。当時は兵役と言えば戦争・軍事力と結びつけて考えてしまいがちだったため、兵役に就く人は、運動神経が抜群で、誰もが争いに抵抗なく戦士として戦う意志を持っている人が兵士になるものだという一種の固定観念をもっていた。逆に兵役を拒否する人々は、争いを拒否し、戦争そのものも拒否する意志を表明している人のことだと考えていた。本当に私が考えていたような思いや思想的理由で選択を行っているのか、その中で若者達はどのように“生きよう”としているのか自分の目で見てみたいというのが、この作品を作るきっかけだった。


photoII- 1 作品を制作するきっかけとなったトーマス君(左)・筆者(右)
(2000年3月27日 ドイツ市内の高校にて撮影)

 トーマス君からの電話後、上記のように感じた私は2004年4月から、「ドイツの兵役制度」の文献を探し始めた。主に日本と海外の新聞・雑誌・論文のデータベース検索を中心に行った。同時にサブツールとして、インターネット検索を行った。新聞・雑誌・論文等のデータベース検索によって集めた資料は、学術的に信頼できると考えた。もちろんそこで得た情報をうのみにしていたわけではないが、疑いつつも“兵役制度”の概要を掴もうとした。サブツールとして使用したYahoo!やGoogle等の検索エンジンは、ドイツで兵士として、兵役拒否者として、そして日本の社会福祉で兵役拒否者として実際に“今”活動しているドイツ人青年を探すためである。映像作品を制作したいとは考えていたが、この時点ではまだ、この件をテーマとした映像作品を本格的に制作することになるとは思ってもいなかった。映像制作は、私にとって“夢のまた夢”でしかなかった。現実問題、撮影・編集技術もない、映像に興味のあるただの学生(筆者)にとって、制作費用、制作後の事等、明るい見通しは何もなかった。
 しかし、文献を集め、ドイツの兵役制度に関する情報を手に入れようと、とりあえず資料獲得へ向けて東奔西走していたのは確かである。(収集した文献については参考文献を参照)当時、何がそこまで私を駆り立てたのか、未だわからない。ただ、映像制作をしてみたい、という“思い”ただそれだけだったのかもしれない。ドイツの兵役制度に関する論文・新聞記事・雑誌記事というのは、日本ではごく少量のものしか見つからない。ドイツと日本、同じ敗戦の歴史を歩んできた国にも関わらず、“兵役”に関する文献の少なさに驚いた。ドイツだけでなく、他国の兵役に関する知識を蓄えるために、同様に検索をかけていたが、思うような題名のものを見つけたとしても数十年前に発行されたもので、数が少ないうえ、載っている細かい兵役に関するデータが10種類読めば、10種類とも違うといった状況だった。『AERA』内の特集記事「ドイツの若者たちが選んだ道―−兵役拒否して日本で福祉−」15を含む、雑誌以外は、ほとんどといっていいほど、ドイツや他の国の国家内における兵役の存在、兵役拒否の存在が中心に述べられていた。制度がもたらす、政治・経済、国際関係の影響力、防衛・軍備についても述べられていた。制度とは、各々の国家の中での国民に対する約束事であるわけだから、前者に重きを置くのはわからなくもない。もちろん、「兵役制度」を理解するうえでは、上記に関するマクロ的視点は重要だろう。しかし、兵役制度をミクロに見つめる視点、つまりその制度の中に生きる若者達の「顔」が見えてこない文献がほとんどであった。制度と共に兵士として活動する男性や女性を対象にした調査記録など、まったく持って手に入れることはできなかった。裏返せば、日本におけるドイツや、他国の兵役制度の議論は、個人の存在を無視した“知”のみで繰り広げられてきたのではないか、という疑問も沸いてくる。机上だけでの議論を繰り広げている知識人の方々に、ある種の反抗心を抱きつつ、兵役制度そのものももちろんのことだが、その制度の中で生きる若者の存在をより「多くの人に知ってもらいたい、現状を伝えたい」という感情の波が押し寄せてきた時、偶然にも今回私が制作した番組の企画書募集要項を見つけた。それが、2003年8月である。企画書が採用されれば、30万円の制作費をいただける。加えて、制作した作品は、テレビ局の電波を使ってテレビで放映される。この時私の目標は決まった。“夢のまた夢”と思っていた映像制作ができるかもしれない、こう感じた私は、“知”よりも“実体験”に基づいた資料をもとに、私なりの思考作業を行いたいという願いから、ドイツへのロケハンを決意した。


 2003年の9月、ロケハンへ行った。ドイツのトーマス君の“生の声”を聞くためである。当時彼は、身体の疾患から兵役制度そのものを免除されたにも関わらず、自ら進んでボランティアとして就労の場を見つけ、働き始めたばかりだった。ロケハンの期間は1週間、彼の自宅を訪問すると共に、彼と観光名所を廻った。その中で、機会を見つけるごとに、兵役制度のこと、ドイツの若者にとっての制度の捉え方などのヒアリングを行った。また、彼の母親であるオルセン・昌子(46歳)さんからは、兵役に就かなければならない息子を持つ母の気持ちや、親の立場から見たドイツの兵役制度についても多くを話していただいた。彼女は日本で生まれ、ドイツ人と結婚し、現在ドイツに在住している。3人の娘と息子がおり、トーマス君はその一人である。
 その時得た数多くの情報は、私に違和感を抱かせたのだが、まだこの時は確固たる自信をもって、私自身の中でその違和感を察することができなかった。その違和感とは、ドイツ人の考える兵役制度そのものである。(詳しくは後述)街頭で軍服姿の徴兵者と出会うたび、心動かされる自分がいたことを今でも新鮮に覚えている。


photoII- 2 兵役制度と生きる家族(2003年9月撮影)


photoII-3 ドイツ・ケルン市の駅にて(2003年9月撮影)

 現地へ行き兵役と共に生きる若者を見て、彼らの声を聞いた私は、帰国後、地方新聞やミニコミ誌にいたるまでリサーチの幅を広げた。ドキュメンタリーを撮るということを前提にしていたため、資料が少なからず見つかったとしても、テーマに相当する取材対象者の現時点での存在がなければ、制作に移れない。
 その結果、見つけた唯一の手がかりが、2002年7月16日の神戸新聞である。この段階では、日本に来ている兵役拒否者を番組の軸にして制作しようと考えていた為、「本当に日本に兵役を拒否して社会福祉活動をしにきているドイツ青年がいるのか?」、「いたとすれば、どこで?」、「どんなコトをしているのか?」、「それはロケが可能な範囲なのか」という取材対象者の存在そのものを心配していた。


 見つけた神戸新聞には兵役制度を拒否し、ドイツから代替役務を行いにやってきた、という内容と受け入れている兵庫県生野町の「いくの喜楽苑」の名が掲載されていた。インターネットを使って「いくの喜楽苑」のホームページを閲覧、この福祉施設そのものの活動の様子の概観を把握しようと試みた。日本でドイツの兵役拒否者を受け入れている施設が社会福祉施設だった為、「介護サービス」、「高齢者施設」に関する文献16までも、目を通した。その後、「兵役制度に興味がある」ということで、電話で「いくの喜楽苑」へ施設の見学と働きに来ている兵役代替役務者と話がしたい、という依頼をした。快く見学依頼を受け入れていただくことができ、2003年11月15日それが実現した。その頃はまだ、「兵役制度」をテーマとした映像作品を制作しようと考えている意向は、「いくの喜楽苑」には伝えていない。まずは、私自身を知っていただき、「兵役制度」をどのように考えているのか、という相互の信頼関係を持つことに専念した。「いくの喜楽苑」では、2000年から兵役代替役務者を受け入れ、それまで8人の代替役務者がいたことなど、事務長からお話を伺った。また、番組にも出ていた、パウル・コブルカ君17(Paul Coblca)と初めて会ったのもこの時である。この段階で一度ラフなたたき台としての企画案を作成し、同時に仮タイトルを決めた。それが以下のものである。

(仮タイトル)「ボクには殺せない」
 ものを壊し、人を傷つけ、さらには自分が殺されることを「仕事」とする兵士。ドイツには満一八歳以上の男性には十ヶ月の兵役義務がある。つまり、ドイツの若者達は、満一八歳までに「人を殺すことができるか、または殺されることができるか」を真剣に考えなければならない。憲法で認められた拒否権を行使すれば国内外での10〜12ヶ月間の奉仕活動で代替できる。以前は「弱虫」、「共産主義者」として非難されてきた彼らも、今では「良心的兵役拒否」というドイツの一般兵役義務の中の一選択肢として、ドイツ国内で広く受け入れられるようになった。このような「一般兵役義務」の質的変化は、ドイツの若者たちにどのような意識的変化をもたらしたのだろうか。
 ホロコースト・ナチス・第三帝国時代・ベルリンの壁...。ドイツの持つ暗い歴史。「兵役拒否」、それは過去との決別の、そして荒んだ世界潮流へのシグナルなのかもしれない。戦争そのものへの拒否が良心的兵役拒否の究極の姿であるともいえるだろう。事実、平成13年の米国での同時多発テロ以降、拒否をする若者が増えている。兵役代替役務として日本へ奉仕活動をしに来ている兵役拒否者を取材することで、今のドイツの若者たちの既成の価値観、意識の変化を映し出し、改めて視聴者一人一人に、「多様化する社会」のありようを問いかけたい。
(2003年11月筆者作成:企画案エディット1)

 「いくの喜楽苑」へのロケハンから戻ってきて、本格的に企画提案書の作成に入った。兵役代替役務者を中心に、番組のストーリーを組み立てていくのか、兵士や代替役務者を織り交ぜながら構成するのか、兵役制度に関する情報だけでなく、番組自身の構成も考えながら、エディット7にいたるまで企画を考えた。その作業には京都文教大学の坂上香先生にご指導いただいた。テレビ局に企画書を提出しようと考えていた時期が、イラクへの日本自衛隊派遣が世間をにぎわせていた。軍事色の強いダークな企画として捉えられたくなかったため、「兵役」と言う文字の使用をあえて控え、今回は兵役制度で4人の青年が置かれている境遇を軸に、ドイツの若者の選択・生き方をフィ−チャーするような企画内容にした。兵士・ドイツで兵役に替わる活動をしている人・日本で兵役に替わる活動をしている人・そして兵役が免除になって自由意志でボランティア活動をしている若者の4人である。


 2004年1月13日。企画採択の報告がテレビ局のプロデューサーから入る。1月22日、テレビ局にてプロデューサーと打ち合わせを行った。実際にどの範囲まで、映像作品として制作が可能なのかという質問に始まり、現段階での構成予定や、プロデューサーが求める番組完成予定・オンエアーの日にちに至るまで一時間に渡り打ち合わせを行ったという記録が当時の手帳に書き込まれている。ドイツ連邦国軍への取材依頼に関しては、国防ということに敏感な時期である点も踏まえて、慎重に行うようご指摘を受けた。
 打ち合わせ後、兵役制度に新たな動きがないかどうか、もう一度リサーチをかけた。同時に、電話・FAXなどで取材対象者に取材依頼を行った。この段階では、兵役を拒否して日本で社会奉仕活動を行っている福祉施設、「いくの喜楽苑」、ドイツ人の友達に頼んで兵士、兵役拒否者の紹介依頼、そしてドイツ連邦国軍に電子メールにて依頼をしている。「いくの喜楽苑」へは、それまで、映像作品を撮りたいということを、一切私の口から言っていなかったため、ここで初めて、施設の中に撮影のためのビデオカメラを持ち込みたい、と取材の依頼を行った。施設の中へ、カメラを持ち込むということは、施設内の入居者の方々の取材許可・プライバシーの問題に関わることとなる。「いくの喜楽苑」は、入居者の方々のプライバシーに他のどの施設よりも、注意を払っていることはロケハンに行った際に、身をもって感じていた。また集めた文献18やホームページ19にもそのような記述が多くみられた。したがって、私にとって「いくの喜楽苑」への取材依頼には細心の注意を払ったつもりであるし、取材依頼書にもその故をあえて記述した。

(8)取材許可〜ロケ準備 - 表(h)
 その結果、心配していた「いくの喜楽苑」から無事取材許可を得ることができた。高校時代に、私がドイツにホームステイをしていた時の、ホストブラザーにお願いしていたドイツの兵士もなんとか見つかりそうだということで、航空券を購入し本格的にドイツへの海外ロケの準備に入った。同時に「いくの喜楽苑」へのロケ日時を設定するため、取材日時依頼書を用いて事務長と具体的なロケ日を決めた。

 ドイツ国民である以上、誰もが行わなければならない兵役義務をどのように青年たちはそれを受け入れて、どのような考えのもと、行っているのかという“生の声“を視聴者に聞かせること、そして兵役義務を通じて10代の若者を描きたい、というのが今回のコンセプトである。もちろん、兵役制度をテーマにすると、いやおうなしに軍隊・自衛隊と結びついてしまう。今の世界情勢についてもう一度考えるきっかけを提供するというねらいで、撮影に入った。
 2004年2月10日・12日、「いくの喜楽苑」のロケを行った。ロケ場所が遠いこともあり、早朝5時半出発、帰宅は深夜という強行プランであった。「喜楽苑」では、デイサービスセンターの部署で働いていた、パウル君とミハエル・シュタムニツ君20(Michel Shutamnitz)の仕事風景を撮影させていただいた。朝8時、苑内での職員ミーティングに始まり、入居者を自宅までトラックでお迎えに行き、夕方まで苑内で食事、お手玉や、料理といったリハビリを兼ねたイベントを行い、自宅までお見送りをするという一日の行動すべてに密着し、撮影した。仕事の空き時間を狙っては、二人のどちらかに、マイクを向けインタビューを行った。入居者のおじいちゃんやおばあちゃんは、初めて見る見知らぬ若者三人組に興味はあるようだったが、どこか戸惑っている感じがした。いずれは、入居者の方々を通じてパウル君やミハエル君の姿を描きたい、と考えていたため、「どうにかしておじいちゃん、おばあちゃんと仲良くなりたい」とその機会を狙っていた。苑内では、ほんの一瞬のシーンも逃すまい、と肩身離さずカメラやマイクを構えてその瞬間を待っていた。第一回目のロケということもあり、ただカメラをまわすことで精一杯だったように記憶している。「いくの喜楽苑」ロケ2回目、取材対象者への信頼関係はもとより、彼らを取り巻く人々、つまり共に働いている職員の方々や入居者の方との信頼関係の形成に努めようと、ロケメンバーと話していた。撮影していたカメラを置いて、入居者の方々と世間話をし、共に笑い、共にお茶を飲んだりもした。それが、共に歩み寄る一つの方法であると信じて。


photoII-4 実際の現場の様子(2004年2月10日撮影)


photoII-5 岩佐祥子さん(左)・筆者(中央)・呉真之さん(右)の3人で(2004年2月11日撮影)

(10)ロケ前半 - 表(j)

 2004年2月17日から27日の10日間、単身ドイツに海外ロケへ行った。ドイツでの取材先は7件だった。(1)兵士のマークス・プラーチ君21(Marks Plarch)、(2)リハビリテーションセンターで病室の清掃や食事の準備などを行っている兵役代替役務者のニルス・シュべージッヒ君22(Nils Schwegich)、(3)ビンツェンツ・パッロッティー総合病院外傷外科で看護アシスタントとしてカルテの整理などを行う仕事をする兵役代替役務者のマイケル・クック君23(Michel Coock)、(4)お年寄りとの話し相手や散歩の相手をしている兵役代替役務者(記録喪失)、(5)兵役そのものを免除され障害者施設でボランティアとして食事・入浴など生活の補助をするボランティアのトーマス・オルセン君、(6)10ヶ月間の兵役活動後、職業として兵士になった職業軍人のヤン・ニクラス君(Jen Niklas)、(7)5人の兵役制度を経験済みのドイツ人青年に集まってもらってのディスカッションであった。
 (1)取材依頼済みの、ドイツ連邦国軍からの返信はなく、期待していた兵士の映像が撮れないのではないか、という絶望感でいっぱいだった。ドイツ連邦国軍の許可なく兵士の撮影を行うことは、倫理的に妥当ではない、と考えていたためであった。しかし、ホストブラザーが紹介してくれた兵役に就いている取材対象者の取り計らいで、彼の上司に話を通してくれていた。連邦国軍からの取材許可の返事がないため、軍事基地にカメラを持っていくことはできないものの、兵士にインタビューすることは許された。そのかわり、インタビューに答える場合には軍服は着てはならない、という条件付である。後日帰国後、以下のようなメールがドイツ連邦国軍の広報担当者から届き、愕然としたことはいうまでもない。

 滞在先に電話したところ、あなたはもう日本へ帰ってしまわれたのこと。ドイツに滞在されている間にコンタクトを取ることができなくて、とても残念です。しかしながら、あなたからの依頼が今日私の元へ届きました。もう一度渡独されるということでしたら、軍服を着た兵士へのインタビュー場所を軍隊基地内でセッティングします。
(ドイツ連邦共和国軍広報担当者から筆者へ宛てたeメールの抜粋)24
 兵士の他に、(2)のリハビリテーションセンターで兵役代替役務を行っているニルス・シュべージッヒ君の仕事風景を2時間という時間限定で取材を行った。押しかけ女房ならぬ、押しかけ日本人ビデオ小僧的な立場に戸惑いを感じた。カメラを回すということは、撮影する側・撮影される側という享受関係が成立した後に、始められるものであると考えていたし、それまでの国内でのロケでも実感していた。大学での講義において、耳にタコができるほど、この件について聴講したし、文献も読んだ。しかし、“知”だけでは解決できない状況に遭遇した当時、私の心は揺れた。素材を撮ることができなければ、いくら彼らから新しい“生”の情報を得たとしても、映像作品は作れない、視聴者に伝わらない。今まで学習してきた教科書通りの、信頼関係が作れるまでカメラを置くか、それとも撮るか。2時間しかないロケ時間の間で、いかにニルス君と心通わせられる関係を作るか、プランを練った。「既に、撮影しても構わない、という許可は数日前に得ているのだから」とこのことを自らに言い聞かせ、カメラを回した。あの時程罪悪感でビデオのRECボタンを押したことはない。まずはじめの一時間は取材対象者に任せて、彼がどのような人柄であるのかを掴む努力をした。同時に、お互いの共通点を探しながら、兵役制度に関係ないことであっても、カメラを回しながらつたないドイツ語と英語を用いて世間話を行い、彼に“私”自身を知ってもらうきっかけをつくった。その過程を経て、築いた関係を元に、今度は私が本題の「兵役制度・兵役代替役務」についての質問をそれまでの会話の流れや口調と変わらないように行った。

photoII-6 マイケル・クック君

photoII-7 トーマス・オルセン君

photoII-8 ヤン・ニクラス君
 (3)ビンツェンツ・パッロッティー総合病院外傷外科で働く兵役代替役務者、マイケル君(photoII-625)のロケも、4時間だけの限定取材であった。前回のニルス君の時と同じ方法で、ロケを行ったが、前回よりもロケ時間は多くもらえているにも関わらず、ビデオテープに記録されている映像には、彼の背中のみ。質問をしても返ってくるのは単語のみ。カメラを途中で置いて、彼と平行に並んで世間話をしようと試みたが、反応は同じだった。彼の兵役制度についての意見は結局聞けぬままロケは終了した。したがって、本編で使用できるような素材を撮ることはできなかった。
 (4)お年寄りとの話し相手や散歩の相手になる仕事をしている兵役代替役務者は、インタビューは拒否されたが、仕事風景を撮影するだけなら構わない、ということでロケをさせてもらった。(5)兵役そのものを免除され障害者施設でボランティアとして食事・入浴など生活の介助をしているボランティアのトーマス君(photoII-726)。彼の働くWBM(ドイツ語で障害者の家の略)での彼の仕事風景を撮影させてもらえた。彼は、私がドイツへ行く前までに、既に彼の働く障害者施設内の入居者の両親宛で取材許可をとってくれていた。
 (6)職業軍人として働くヤン君(photoII-827)には、兵役代替役務者が年々増加していく中、兵役義務が終了した後も兵士になる決意をした要因を中心にインタビューを行った。“兵士としての生の声”を聞く機会が少なかったこともあり、「あえて言うならば、兵役制度反対派」だった私にとって、私自身の考えに幅を持たせてくれた。「誰も人を殺そうなんて思って、兵役になんか就いていないよ。」「ドイツは戦争には参加しない国だってわかっているからこそ、兵役に就くことができるんだよ。身体的にも肉体的にも自分を追い詰めることができて、自分をより成長させることができる場所が偶然軍隊だった、ということ。」28この頃から、私がイメージしていた「兵役制度」とドイツの若者たちが考えているそれとの間に、大きな溝があることに気づき始める。
 (7)5人の兵役制度を経験済みのドイツ人青年に集まってもらってのディスカッションでは、カメラを回し、こちらから質問を浴びせるということよりも、彼らの意見や考えを聞く場として用意した。今まで読んできた「ドイツの兵役制度」についての文献(参考文献を参照)を超えた新たな発見を少しでもしたいという狙いだった。この時点でようやく数々の取材対象者のインタビューで話を聞き、彼らの行動を見て感じとっていたことが点から線へと変わり、線からぼんやりとした「兵役制度」という肖像が私自身の中に宿り始めた。

(11)ロケ後半 - 表(k)

 2004年3月2日ドイツから帰国後、再度「いくの喜楽苑」へロケに行った。これは前回行った時の取り残しを撮るという予備日としてと、私自身ドイツへ行って制度の現況を見てきた後では、それまでの考えが変わるかも知れない、ということからこの日を一日設定した。以前までの撮影で撮り貯めたVTRには、それまで私が考えていた制度そのものや、若者の考えに基づいた質問に答えるパウル君とミハエル君の姿が収められている。しかし、私の中での「兵役制度」の変化に伴って、行うべき質問がまだまだあった。追加取材を行わなければ、番組のストーリー成立に支障をきたしかねかった。三回目の訪問となると、入居者の方々との関係も築け、ビデオテープが回っているのにも関わらず、「お兄ちゃんらのためにゆで卵ゆでてきてあげたから、これ食べ」と手渡された3つの卵。またある時は、足音やカメラブレをなくすために、スリッパを履かず靴下のみで撮影をしていた私たちに、「兄ちゃん、足冷えるからスリッパ履きよ」とわざわざスリッパを持ってきてくれた。このように、信頼関係形成の結果が目に見える形で現れたことに、喜びを感じた。



photoII-9 番組制作で用いたファイル・ノート

  1. 番組制作ノート(PDFファイル)
    企画案のブレーン・ストーミング用に使用。
  2. 「良心的兵役拒否」関連資料ファイル
    ありとあらゆる国と兵役制度・兵役拒否者に関する文献・資料・新聞等を集めたファイル。
  3. 制作資料ファイル
    企画提案書・テレビ局との契約書・取材依頼書・ロケ計画書など、実際に制作時に使用した書類のストックファイル。
  4. 番組構成表ファイル(PDFファイル)
    編集時に構成を考える上で、構成表を制作。それをまとめたもの。
  5. ラッシュノート(PDFファイル)
    取材してきた33時間分のテープをすべて文字媒体に書き起こしたファイル。
  6. 制作費・諸経費関連資料(PDFファイル)
    テレビ局からの制作費やロケにあたっての出費などを書きとめたノート。領収証や航空運賃、自動車高速道路代などの出費を書き留めている。

 撮影したVTRを編集した作業工程は以下の通りである。(1)撮影したテープ、33時間分をすべて見てのノートおこし。(2)ノートおこしで作成したノートを基に、数ある素材の中から、作品で使用したい箇所を選び出し、パソコンでキャプチャー[パソコンにデジタル化させた映像を取り込む作業のこと]する。(3)Adobe「Premire6.5」という編集ソフトを使用して、映像を“切る・つなぐ”を繰り返し、一本のVTRに仕上げる。(4)取材対象者の話す、英語・ドイツ語に適切かつ簡潔な日本語訳をつけテロップを入れる。ここでは、できるだけ取材対象者の話すコンテクストに則って翻訳する努力をした。前項の写真は、番組制作で用いたファイル・ノートの一部である。編集作業中は、京都文教大学の坂上香先生をはじめ、甲南大学の北原先生、そして京都市視聴覚センター技術員の竹田京二先生にアドバイスをいただいた。


 幾度となく、作品構成を練り直し、映像をつなぎ換える作業を繰り返した後、出来上がった映像の流れに沿ったナレーション原稿を制作した。この番組の放映時間は30分。その中に3度に分けてCMが入ることになっていた。よって私が制作する本編も3つのブロックに分け、CMとのつなぎ部分とそれぞれの内容と時間との格闘だった。時間との制約と、作品の内容とに苦慮しながら最後の仕上げを行った。その後、2003年3月23日、東京・赤坂にあるスタジオ「株式会社NEO P&T」でナレーションの収録を行った。小玉敏樹さん・中田真理子さんにナレーション・翻訳吹き替え文を読んでいただいた。収録にはテレビ界の第一線で活躍されている録音のプロである、森英司さんと富永憲一さんにもお手伝いいただいた。京都文教大学の坂上香先生には、収録日時の設定、ナレーター・スタジオの手配などすべて行ってくださった。大変感謝している。


photoII-10 ナレーション収録スタジオ風景(2004年3月22日撮影)


photoII-11 番組の一部29
 つなげ終わった映像にナレーション音源・BGMを編集し追加した後、完全パッケージに仕上げ、テレビ局で2004年3月28日、プロデューサーと共に試写を行った。ここでは、テレビとして放映できるクオリティーに仕上がっているか、また使用した音源の著作権の確認と肖像権の確認も兼ねていた。その時、視聴者によりわかりやすく作品を提示するためにも、作品内で私が取材対象者へ質問をしているシーンに、質問内容を文字化したテロップを入れるように、という指示があった。この点の修正を行い2004年4月1日納品。こうしてようやく、放映日が4月9日と決定した。

 2004年4月9日、上記のプロセスを経て『ボクには殺せない〜ドイツ・兵役制度と生きる男たち〜』は、在阪テレビ局の深夜1時30分から2時の番組枠で、放送された。


14 ドイツ・ケルン在住。18歳。ドイツ人の父と日本人の母の長男として生まれる。ギムナジウム(註‐7参照)を卒業し、兵役制度に悩んでいた(2003年度当時)
15 古山順一「ドイツの若者たちが選んだ道―−兵役拒否して日本で福祉−」『AERA』 2001年4月16日、朝日新聞社、 p.46-47
16 「「個室型特養」にゆとり」『日本経済新聞』2002年2月4日(夕刊) 第11面
「全室個室でユニットケア型・特養に登場」『日本経済新聞』2001年12月30日(朝刊)第23面
「酒 楽しめる特養続々」『日本経済新聞』2003年5月11日(朝刊)第29面
辻村禎彰 『真の公的介護保障をめざして』1998年6月15日第1刷 あけび書房株式会社
17 ドイツ・ミュンヘン出身の19歳。兵役制度を拒否した後、NPO「独日平和フォーラム」が仲介役となり、「いくの喜楽苑」へ兵役代替役務を行いに来ている。(2004年当時)
18 「「個室型特養」にゆとり」『日本経済新聞』2002年2月4日(夕刊) 第11面 
19 尼崎老人福祉会 喜楽苑ホームページ http://www.kirakuen.or.jp/(2003年10月閲覧)
20 ドイツ・キール出身の19歳。(2004年当時)パウル君同様の方法で活動中。
21 ドイツ・ケルン在住の19歳。ギムナジウム(註-7)を卒業後、兵役についている。
22 ドイツ・ケルン在住の19歳。ギムナジウム(註-7)を卒業後、兵役を拒否し代替役務を行っている。
23 ドイツ・ケルン在住の19歳。レアルシューレ(註-6)を卒業後、兵役を拒否し、代替役務を行っている。
24 広報担当者氏から筆者へ宛てたE-mail. “TV-Projekt Japanisches Fernsehen zu Wehrpflicht” 28 Feb, 2004.
25 彼が働く病院で、ロケを行った時のVTRから引用。
26 彼の働く障害者施設で、ロケを行った時のVTRから引用。
27 彼の自宅にてインタビューを行った時のVTRから引用。
28 ヤン・ドリュング君へのインタビューより抜粋(2004年2月24日実施)
29 番組の一部より引用

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