社会調査工房オンライン-社会調査の方法
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4-5 映像制作の現場から(甲南大生体験記)
4-5-4 番組構成

 ここでは、2004年4月9日・23日(再放送)、在阪テレビ局の番組枠で放送された『ボクには殺せない〜ドイツ・兵役制度と生きる男たち〜』の作品構成について紹介したい。与えられた番組の枠は30分である。その時間からCMの時間を除いた24分15秒が私の自由に使える時間だった。作品内は、大きく3つのセクションから構成されていた。(1)兵士の様子、(2)ドイツでの兵役代替役務者の様子、(3)日本の兵役代替役務者の様子、である。24分のうち、半分以上の時間を日本での活動の様子を取り上げている。兵役制度がいくらドイツの事だとは言え、パウル君とミハエル君のたどたどしい日本語で、視聴者に親密感を抱いてもらい、私たちの身近にも国の制度と共に生きている若者がいるんだと言うことを少しでも感じてもらうための工夫だった。時間的な制約も大きな問題で、取材先が国内ということもあって、取材期間に制限はあるものの、今回海外で行った取材時間よりも、はるかに長い時間取材をさせていただくことができた。取材期間が長いだけ、取材対象者との関係が円滑に働き、より彼らの真意をインタビューにおいて引き出すことができる可能性が増すことはいうまでもない。
 まず、兵役についているマークス君のセクションでは、彼の兵役制度に対する考え方、兵役の日常を映し出している。たとえ兵役に就いたとはいえ、その中で彼なりの葛藤があると言うことを伝えたかった。兵役は国防だとりりしく話す、ドイツ人兵士の姿を取り上げつつも、自らのした選択に戸惑いを感じながら、ドイツ国民としての義務を話す若者の姿を見てもらいたいと考えていた。セクションの2つ目では、ニルス君というドイツでの兵役代替役務者をとり挙げている。リハビリテーションセンターで働く彼の姿を追い、仕事の合間を縫っての彼のインタビューと、彼の上司にあたり、リハビリテーションセンターの看護マネージャーの方のインタビューを交え構成している。
 ここでは映像のつなげ方だけではなく、翻訳のテロップにも工夫していた。例えば、ドイツのリハビリテーションセンターで兵役代替役務を行っているニルス君がインタビューに答えるシーンでは、「Military service is always I don’t like it. I don’t know why many many young people chose this part of the official service.」31に対して、「僕は兵役には就きたくないね。兵役に行く人の気がしれないよ」という具合に、本人の言っているコンテクストの中でできる限り、いかにも「彼は兵役に就きたくないんだ」という意思をもっていると思わせるような翻訳にしている。こうする事で兵士・兵役代替役務者両者の生の“声”を聞いてもらおうというねらいである。
 セクションの3つ目では、日本での兵役代替役務を行う2人の青年を取り上げた。お年寄りと彼らとの何気ない会話や行動を入れることで、日本の文化を含め、異国の地でどれだけ施設に溶け込んでいるのかを表現している。また、ミハエル君の彼女の話、二人のアフターファイブの姿を入れることで、一見自らの意思で自分の生きるべき道を選んだ“大人”としてみられがちなパウル君とミハエル君。いくら兵役制度と共に生きているとはいえ、私たちと何ら変わらない同じ若者であるということを映像から表現しようと試みたものである。

番組構成
兵士(マークス・プラーチ君)
Total Time:6分30秒

内容
 2003年9月から兵役に就いている。兵士になる事は、彼の生き方・考え方にどのように変化をもたらしたのか?軍事訓練中の写真を交えながら構成。
 
兵役拒否者(ニルス・シュベージッヒ君)
Total Time:4分30秒

内容 
 兵役を拒否し、10ヶ月間の社会奉仕活動に従事することを選んだ、ニルス君。彼は、マークス君と正反対の意見を持つ。どのような思いで兵役を拒否し、社会奉仕活動を行っているのか?活動の様子を通じて彼の本心に迫る。
兵役拒否者(パウル君・ミハエル君)
Total Time:13分15秒

内容
 兵役を拒否し、海外(日本)での社会活動を選んだ、パウル君とミハエル君。海外での活動は、国内での活動より2ヶ月も長い活動期間が課せられる。“兵役”という制度を越えた、彼らなりの従事期間の過ごし方を、日本の福祉施設での活動を交えながらに映し出す。

あとがき

 私の作品が放映された瞬間、興奮で体の震えがとまらなかった。「自らの思いを誰かに伝えたい」というキモチを動機に突っ走った、一年間の制作期間。そして、発信された私の思い。映像作品や番組を制作するということは、これまでテレビ局などで働く「プロ」だけのものだった。そして、制作された作品も、マスメディアを通してでなければ多くの人に観てもらうことはできなかった。テレビ局が放送開始以来、50年にわたって制作・発信するための権利・技術を独占してきたといっても過言ではない。
 しかし、安価で高性能なビデオカメラが普及し、映像をパソコンで自由に編集することが可能になったため、これまで「受け手」に甘んじてきた私を含む視聴者が、デジタル技術を使って、映像作品を制作・発信することができるようになった。それは紛れもなく、自らの思いをカタチにし、表現できる時代の到来といえよう。
 事実、私が映像作品を制作する動機となった在阪テレビ局の番組も、2004年度では19歳から38歳の大学生、専門学生、大学院生から227通の企画書の応募が寄せられており、そのうち46作品が採用、放送されている。
 全章を通してこれまで述べてきたように、一制作者・発信者となった体験は、私にとって刺激的だった。それは私が講義室で聴講してきた以上のものを、“実”体験として教えてくれた。制作現場そのものが、私にとっての「先生」だったのかもしれない。
 作品の完成から2年が経った。制作者の意図とは裏腹に一人歩きを始めた私の作品、その産み落とされたばかりの作品も、一度ブラウン管を通って、人の目に飛び込んでいくや否や、その姿を変えてしまう変形自在な映像というメディア。2006年4月で、テレビ局との2年間の作品著作権契約が切れる。この経験で得た知識・感受性を元に、より多くの方々にこの作品を観てもらうためにも、インターネット放送などへの進出を考えている。従来通り、テレビを使っての情報の発信方法以外の手段を模索している最中でもある。かつて私にとって映像を制作することが“夢のまた夢”だったように、新たな思いの発信に向けて、私の挑戦は今ここから始まる。


31 取材対象者がインタビュー中に発した言葉、そのままを文字化したものであるため、英文法に誤りがある。

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