modern american economy
2-1. 戦後アメリカン・システムの特徴:パックス・アメリカーナ
担当:甲南大学 稲田義久
1940年後半から50年代にかけて、戦後世界の統一的な政治・経済秩序がアメリカ主導の下に再建されていきます。その結果、第2次世界大戦後は、一時的な危機はありましたが、世界的なレベルでの戦争は実際には起こりませんでした。もちろん地域限定的な紛争は起こりましたけれど。世界経済も戦前の大恐慌の悪夢を乗り越えて、持続的な経済成長を享受していきます。
このように長期にわたって政治的・経済的な繁栄が続いたことから、この時期のアメリカを盟主とする統治形態はパックス・アメリカーナ(Pax Americana)と名づけられました。これは世界史上でローマによる統治が長期の平和と繁栄をもたらしたことが、“ローマの平和(Pax Romania)”と名づけられたことにちなんだものです。
ここでは戦後の持続的成長を可能にした、アメリカン・システム(パックス・アメリカーナ)の特徴を整理してみましょう(戦後パックス・アメリカーナの詳しい説明については、河村哲二『現代アメリカ経済』、有斐閣(2003)が参考になります)。
戦後のアメリカン・システムの特徴は下表のように、国内的特徴と対外的特徴に分けて説明するのがわかりやすいと思われます。
表2-2 戦後の持続的成長を支えたアメリカン・システムの特徴
国内的特徴 |
(1) |
大量生産システム |
(2) |
成熟した企業体制 寡占体制 労使協調型の労働組合 |
(3) |
大きな政府 突出する国防費 アメリカ型福祉国家 |
(4) |
経済安定化の機能 |
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対外的特徴 |
(1) |
東西冷戦体制 |
(2) |
IMF=GATT体制 |
(3) |
ドルの基軸通貨化 |
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2-1-1 国内的特徴
大量生産システム
戦後の持続的成長を支えたアメリカン・システムの第1の特徴は大量生産システムです。フォードシステムに代表されるような大量生産システムは、「規模の経済(economy of scale)」を通じて生産性の上昇をもたらします。また労働代替的な技術革新を体化した設備投資も生産性を上昇させます。このように、アメリカの戦後大企業体制には、技術革新とその導入を促進する誘引が組み込まれていたのです。
戦後技術革新の基礎は、第2次世界大戦の戦時経済によって準備されたといえるでしょう。それは、戦争中に兵器・軍事技術開発と密接に関連しながら、科学研究開発局を中心に国家プロジェクトとして発展が促進されました。
戦前にすでに根はあったものの停滞していた技術が戦時経済を触媒として戦後一気に花開きます。例えば、トランジスター、半導体、レーダーは戦争に関係した技術で、その発展は戦争を抜きにしては語れません。さらにはコンピュータなどを中心とする電子工業・エレクトロニクス、合成ゴムや合成繊維・プラスティク技術と関連した石油合成化学産業などの発展、航空・宇宙技術、原子力技術なども戦争を触媒として大きく発展し、戦後に実用化と商業化が大きく促進されたのです。機械産業や組み立て産業では、戦時の軍需品の大量生産と関連して、製品品種の標準化、規格化などといった製品管理技術が発展し、大量生産技術が幅広く普及拡大したのも、戦争の賜物なのです。
機械化やオートメイション化の技術が大きく進展したのは、もともと戦時下の労働力不足に対応するという経済的な理由があったのです。もっとも、技術革新の導入や大量生産システムによる生産性の伸びが高くても、労務コストや労務管理コストの上昇を吸収し切れない場合もありますが、そういう場合でも事業を多角化的に展開することによって吸収することが可能でした。これを「規模の経済」に対して、「範囲の経済(economy of scope)」と呼ぶこともあります。
成熟した企業体制
第2番目の特徴として、アメリカの戦後企業体制において、安定的な労使関係が確立普及したことです。この戦後の労使関係により中心的な労働者の雇用保障と高い水準の実質所得が維持されたのです。基幹労働者の実質所得の上昇は、耐久消費財部門に安定的な需要の場を提供し、その拡大を支えたのです。この層の安定的な存在により経済の持続的拡張のメカニズムが構造化されたといえるでしょう。
戦後の労使関係を通じて、基幹的労働者や中間管理層など、所得増大で形成された厚い中間層が拡大しました。それが、戦後アメリカに中間層の典型的な消費パターンを生み、自動車、家電などの耐久消費財や住宅建築のブームをリードし、いわゆる「アメリカ型生活様式」による「豊かな社会」を戦後から早く出現させたのです。
1950年代後半には、経済が成熟度を高めるとともに、基幹的量産産業部門を中心に「成熟した寡占体制」が確立されました。寡占体制の下では企業は強い市場支配力を持ちますから、賃金やフリンジベ・ネフィットなどの上昇分を価格転嫁することは容易でした。成熟した企業体制はこのようにインフレ体質を内包していたのです。
大きな政府
1950年代後半にかけて、アメリカ経済に顕在化してきたインフレ体質や、多角化、多国籍企業化、コングロマリットなどが成熟した企業体制の展開の特徴でした。もっとも、この成熟した(寡占的)企業体制といえども、景気循環を消滅させることはできません。マクロ経済的な総需要の変動は不可避で、外部的なショックに対して、いくつかの重大な問題を生ずる構造的な特質をアメリカ経済は内包していました。それゆえ、アメリカの戦後の企業体制は、マクロ経済的な需要の安定的な拡大を、その重要な存立条件としておりました。
このため国内では政府が経済安定化に重要な意義を担いました。これが第3番目の特徴です。ケインズ主義政策だけでなく、福祉国家や軍産複合構造も安定的な経済拡大を保証するメカニズムを構成しておりました。政府の安定化機能については、次節で説明します。
2-1-2 対外的特徴
アメリカ経済の戦後の「持続的成長」は、世界経済に対するアメリカ経済の編成力の重要な柱でした。そうした「持続的成長」のために、同時に、政府の機能がマクロ経済的な総需要の安定化と持続的な拡大を維持する重要な役割を担いました。対外面を見ると、軍事的には、東西冷戦を実態とする世界軍事体制、経済的には国際的管理通貨体制としてのIMF(国際通貨基金)=ドル体制、GATT(関税と貿易に関する一般協定)体制、ドルの基軸通貨化を意味する「ドル散布」などが、世界的な政治経済秩序(パックス・アメリカーナ)を維持するシステムの特徴でした。
東西冷戦体制
アメリカが主導した戦後の世界秩序の特徴といえば、ソ連、中国などの社会主義国の「封じ込め」を目的とする政治秩序の確立であったといえるでしょう。世界的な政治軍事体制の構築のために、集団的・個別的安全保障条約網を展開していきました。日本との関連では、1950年6月に結ばれた日米安全保障条約がそれにあたります。
「封じ込め」政策との関連で、戦後のアメリカとソ連をそれぞれの陣営の盟主とする東西冷戦は極めて重要です。
1946年3月、イギリスの首相チャーチルが有名な鉄のカーテン演説を行って以来、アメリカとソ連の対立は先鋭化しました。47年3月には、「トルーマン・ドクトリン」によって、ギリシャ、トルコへの援助と、共産主義の封じ込め政策が明言されました。ソ連と東欧を排除した対外援助プログラムである「マーシャル・プラン」は、両国の対立を決定的なものにしました。ソ連は48年4月にはベルリン封鎖でもってこれに対抗しました。
アメリカは戦時に蓄えた圧倒的な軍事経済力でソ連を封じ込めると考えていました。しかし最大の誤算は、49年9月にソ連が原爆を保有していることがはっきりしたことでした。ソ連の原爆保有は従来のパワー・バランスの変化であって、ソ連がアメリカにとって、政治的・軍事的・経済的にパックス・アメリカーナ秩序に対する挑戦者であることを意味します。これまでのアメリカの圧倒的優位は崩れ、以降、戦後世界の政治・軍事秩序は、厳しいアメリカ・ソ連の軍事対立を実態とする「東西冷戦構造」を伴うものとなったのです。
東アジアは「東西冷戦構造」のもとでの、アメリカ・ソ連やその同盟国が直接にその影響力を示す場所、また直接対峙する草刈場となりました。アメリカは、国連を中心とする構想ではなく、自らの意思と力による戦後の世界的な政治・軍事秩序の確立と維持に志向しました。そのため個別的・地域的集団防衛条約のネットワークを構築し、対ソ連、対中国「封じ込め」政策を展開したが、それに対抗して、ソ連、東欧、中国は独自の軍事同盟ブロックを形成しました。かくして1990年代初頭まで、東西冷戦が戦後世界の政治的・軍事的な基本的枠組みとなったのです。
IMF・GATT体制
世界大恐慌の渦中の1930年代に、主要国はブロック経済に走ることにより統一的な世界経済秩序は崩壊しました。各国が自国利益のみを追求した結果、すなわち、金本位制が崩壊し為替切下げ競争によって国際通貨体制は大混乱し、世界貿易の縮小均衡を引き起こしました。これは結局、世界経済の不安定化をもたらし、世界経済の解体を招き、第2次世界大戦を招く原因となりました。
それゆえ、統一的な世界経済システムの再建は、第2次世界大戦を経た戦後世界の大きな課題でありました。この反省にたって、為替・貿易の自由・無差別原則の下で、戦後世界経済の統一的な再建が目指されたのです。
戦後の国際通貨体制は、為替取引の自由を原則とするIMF=ドル体制として確立されました。それは、世界大恐慌の過程で1920年代の再建金本位制が崩壊して失われた世界的な統一的通貨体制を、アメリカドルを基軸として再建するものでした。IMF=ドル体制は、戦後通商システム面のGATT体制を並んで、戦後パックス・アメリカーナの世界政治経済体制における対外的特徴の1つといえます。
ドルの基軸化
IMF=ドル体制は、第2次世界大戦末期の1944年に連合国44カ国が参加し開催された会議で締結された、ブレトンウッズ協定とそれに基づくIMFの創設によって準備されました。
同協定では、加盟国は自国通貨の為替相場をドルまたは金に対して固定して、それを狭い範囲で維持する義務を負っていました。
アメリカ自身は、1934年金準備法に基づき、金1オンス(31.1035g)=35ドルで外国通貨当局に金ドル交換を保証していました。IMF協定そのものには、ドルを基軸通貨とする直接の規定はなかったのですが、この間の状況を考えれば、戦後の国際通貨体制の下では基軸通貨の地位を占めるのはドル以外にありえなかったのです。
戦後世界におけるアメリカの圧倒的な経済力の優位を背景として、ドルは唯一金とのつながりを制度的に維持していました。これは、圧倒的な貿易黒字によるアメリカの大量の金準備に裏打ちされていたのです。戦後初期には、ヨーロッパや敗戦諸国は著しいドル不足に苦しんでおりました。救済・復興需要を中心とした各国の需要はアメリカからの輸出に向かい、その支払いで大量の金流出(アメリカにとっては金流入)がおこりました。その結果、アメリカは世界の貨幣用金の約6割を一時保有したといわれています。このような状況の中で、各国通貨は対ドル為替相場に釘付けされた固定相場体系が現れるのも当然の成り行きといわねばなりません。