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modern american economy
2-3. 黄金の60年代:ケネディ・ジョンソン大統領の時代

担当:甲南大学 稲田義久


2-3-1 ニュー・エコノミクスの登場
 ケネディ大統領の下で積極的な経済拡張政策が採用されました。その理論的基礎を与えたのは、S.ハリスらのケインジアンによる「ニュー・エコノミクス」の理論でした。そのキーワードは「完全雇用余剰」概念に基づく、積極的財政政策です。しばしば、現実の経済は労働市場が完全雇用を実現する前に均衡し潜在的な成長率が実現しない場合があります。「完全雇用余剰」とは経済が潜在成長率を実現できた場合に生ずる財政状況をさします。つまり、潜在成長率を実現できた場合に生ずる財政収入と見合うまで財政支出を拡大してもよいという主張なのです。実際の財政出動は完全雇用が実現できるまで財政を拡大していませんでした。この積極的な考え方に基づいて、拡張的財政政策が実施されたのです。また具体的な財政政策としては、設備投資を促進させるために「加速度償却」による投資刺激策なども提案されました。

 ニュー・エコノミクスの基づく積極的な刺激政策の下で、アメリカ経済の実質経済成長率は1962年に6.0%を記録し、以降66年まで4%を超える高い成長率を実現します。失業率も61年の5.6%から65年には3.9%と4%を下回ります。以降、失業率は3%台を維持し、ほぼ完全雇用を実現したのです。また消費者物価指数で見たインフレ率も60年代前半は1%台に収まり、完全にコントロールできたといえるでしょう。

 このように、60年代のアメリカ経済はそのパフォーマンスから黄金時代とも呼ばれますが、社会的には大きな変革運動の嵐に巻き込まれます。

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2-3-2 ベトナム戦争と公民権運動
 ケネディ大統領は任期半ば凶弾に倒れますが、その期間は短いといえども緊張に満ちたものでした。対外的に大きな決断に迫られ、キューバ危機やベトナム戦争への介入が矢継ぎ早にやってきます。

 キューバ危機は彼の果敢な判断で戦争には繋がりませんでしたが、対外政策の重要な転機となったのがベトナムへの軍事介入でした。ケネディ大統領の後を受け継いだジョンソン政権では、ベトナムへの軍事介入がエスカレートします。

 アメリカが主導した戦後のパックス・アメリカーナの秩序は東西冷戦を構造的に組み込んでいました。ベトナムは東西せめぎあいの最先端であったのです。そこへの軍事介入は、戦後のパックス・アメリカーナ維持のためには当然の戦略でありました。すでに54年4月にアイゼンハワー大統領は、ベトナム防衛を公式に主張しておりました。ケネディ政権ではすでにベトナムへの介入拡大が決定されておりましたし、実際、軍事顧問団も派遣されていました。

 ベトナム戦争の特徴は朝鮮戦争の場合と異なり、大きな反戦運動が伴ったことです。なぜ反戦運動が起こったかというと、アメリカが主導した戦後のパックス・アメリカーナの維持の正統性に、人々が疑義を感じたためです。ことは深刻です。これにはメディアの戦争報道が果たした貢献を見逃すことができません。お茶の間のニュース番組に戦争のシーンが現れ、無辜なベトナムの子供がアメリカ軍の爆撃で逃げ惑う姿が写真や雑誌に発表されました。この戦争はいったい誰の何のための戦争なのか、多くのアメリカ国民(特に青年)は悩み、政府の政策を疑い始めました。果たして、戦後経済繁栄の基本構造までに疑念が向けられ、国内の貧困問題など、これまで繁栄の陰に隠れていた社会問題までクローズアップされていったのです。

 すでに1950年代から人種差別と闘う公民権運動が黒人層を中心として盛り上がり、南部を中心に勢いを増してきました。これを主導したのが有名なマーティン・ルーサー・キング牧師でした。この運動がベトナム反戦運動と結びつき、60年代末には全米主要都市で人種暴動が頻発しました。学生や若者が反戦や反体制運動を起こし、社会に異議を唱えたのでした。当時の青年の心に与えたベトナム戦争のインパクトには筆舌に尽くしがたいものがあります。当時のアメリカのフォークソングの歌詞には、このような青年の願いや心情が深く織り込まれています。

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2-3-3 「偉大な社会」プログラム:2つの戦争
 惜しくも63年11月22日にケネディー大統領は暗殺されますが、その後をジョンソン副大統領が引き継ぎます。こうした反戦運動や人種暴動といった社会問題の噴出に対して、ジョンソン大統領は手をこまねいていたわけではありません。彼は答えとして、福祉国家理念の延長線上での2つの戦争、すなわち「ベトナム戦争」にも「貧困に対する戦争」にも勝利する「偉大な社会」の建設を提案しました。

 その結果、国防費支出とともに福祉支出も拡大し、連邦政府の財政支出が徐々に拡大していきます。連邦財政支出の対名目GDP比率を一瞥して、そのことを確認しましょう。

 国防費の対GDPシェアは朝鮮戦争や冷戦構造の先鋭化で、1952年に13.2%に突出します。50年代は10%近傍で推移するのですが、60年には1桁台まで低下します。さらに65年には7.3%まで低下しますが、以降再び上昇し、68年には9.4%を記録し、65年から2.1%ポイントも上昇します。

 一方、社会保障関連支出(ここでは、保健、メディケア、所得保障、社会保障関連支出の合計)のGDP比は、50年代後半には3%を超え、60年代には4%台になります。しかし、60年代の後半には5%を超えることになります。

 この結果、国防費と社会保障関連費の合計の対GDP比は、朝鮮戦争以降から60年代半ばにかけて、国防費が急速に低下する中で社会保障関連費用が緩やかに上昇したため、53年の16.1%のピークから65年の11.5%へと大きく低下しました。しかし、65年以降は徐々に上昇し、ベトナム戦争がピークに達する68年には14.5%にまで上昇しました。2つの戦争に勝利するという「偉大な社会」構想の実現には、大変なコストがかかったのです。

 反戦運動が高揚し、ベトナムの軍事介入の正統性が大きく揺らいでいるわけですから、政府は「偉大な社会」構想実現のコストとして増税政策は採用できませんでした。その結果、財政バランスは悪化し、財政赤字が大きく拡大しました。68年の連邦政府財政赤字の対GDP比は2.9%となり、戦時や再転換過程期を除けば最悪となりました。

図2-2 連邦財政の対GDP比:%
図2-2 連邦財政の対GDP比:%

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