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modern chinese economy
5-1. 人民公社の解体と農村の自由化
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


5-1-1 農業・農村改革
 改革・開放と一口に言っても、その内容は複雑かつ多岐に渡ります。最初に中国が行ったことは農業・農村改革でした。1978年時点において大部分の中国人は農村部に住んでおり、しかも最大の産業・就業機会は農業だったのです。具体的には1978年時点において全人口のうち農村部に居住している人口の割合は82.1%、全就業者のうち農林水産業に就業している就業者の割合は70.5%、農村で働いている就業者の割合は76.3%、農業戸籍保有者は全人口の84.2%でした。中国はしばしば移行経済と呼ばれますが、その第一の軸は農業・農村経済から工業化・産業化社会への移行という「経済発展」だったのです。
 このような当時の現状から出発して、1979年より幾つかの改革が実行に移されていきます。その要点は次の三つに整理できるでしょう。

(1) 農産物買付価格引き上げ
 まず1979年に、政府の農産物買付価格を1962年以来18年ぶりに大幅に引き上げました(総合で22.1%の引き上げ)。農家の生産物価格を農家が購入する資材等の工業製品価格で割った比率を「農家交易条件」と言います。そしてこの比率が改善したとき農家が有利になることは、直感的に理解できるでしょう。次の図5-1が示しているように、中国の農家交易条件は1979年より顕著に上昇していることが見て取れます。これが第一の農業・農村改革の中身です。

図5-1 中国の農産物買付価格と農家交易条件(1950年=100)
図5-1 中国の農産物買付価格と農家交易条件(1950年=100)
注)
農家交易条件は農産物買付価格を農村工業製品小売価格で割ったもの。

資料)
国家統計局国民経済総合統計司編「新中国五十年統計資料匯編」1999年、国家統計局編「中国統計年鑑」2000・2001年。

(2) 農家経営請負制導入
 社会主義の理念は「生産手段の公有制」です。人民公社時代は生産手段の集団所有と集団労働の下で、生産物のうち上納分を除いた残りが農民の取り分であり、実態的には「均等分配」が原則でした。しかしこうした悪平等は働く意欲を阻害し、農業を低迷させてきました。こうした当時の現状に対する第二の改革は、通常「農家経営請負制」と呼ばれる制度改革でした。その中身は次のように整理できます。

(1) 形式上の「土地公有制」は温存したまま、土地の「耕作権」を一定期間農家に貸与し(期間は当初3-5年、その後15年、江沢民の時代に30年に延長)、集団営農から実質的な個別農家経営に切り替える(「分田単幹」と言います)。なお、耕作権の配分は頭数で割る「均田制」が採用されました。
(2) 土地耕作を請け負う農家には生産物の上納義務がある。その代表的な方法として農家単位で生産を行い生産量に応じて比例分配を行う「包産到戸」と、農家単位での生産は同じだが、国や集団への供出ノルマを達成した残りを全て農家の取り分とする「包干到戸」の二つがあり、実際には後者の「包干到戸」が主流となりました(「包」とは請け負うという意味です)。

 もっとも当初、中共上層部は農家経営請負制導入には消極的でした。しかし1978年11月の安徽省鳳陽県小崗村で始まった請負制は、80年9月に遅れた地域でも農民の要望があれば導入してもよいことになり、安徽省第一書記であった万里の積極的推進により1980年より急速に普及します。

 また、1982年11月の人民代表者会議(中国の国会)において「人民公社解体」が決定され、翌1983年には中国全域にわたって人民公社解体、翌1984年から旧人民公社は「郷鎮政府」に、そして人民公社の付属機関であった「社体企業」は「郷鎮企業」に衣替えします。このように1958年より続いた人民公社体制は、僅か2年足らずで完全に解体されました。

(3) 農産物市場の形成
 1953年の統一買付統一販売制度(「統購統銷」)導入以来、永らく続いていた農産物買付・販売の国家独占がヤミ市場の出現により維持困難になります。そのため、1985年3月に農産物の強制拠出制度が廃止され、以後政府の農産物買付は契約制に移行しました。この農産物流通市場自由化が改革の第三番目の柱です。そしてこの流通面での自由化により従来の食糧配給制の意義が薄れ、食糧調達面からの農民の都市部就業制約が緩和されていきます。

 次の表5-1は農産物のうち、政府が設定する価格で売られるもの(政府固定価格)、政府が価格決定に関与するもの(政府指導価格)、そして市場の自由な価格形成に委ねられるもの(市場調節価格)の割合の推移を示したものです。1985年を転機として、政府が関与する農産物の販売額シェアが激減し、1995年時点で79%の農産物が自由取引に委ねられていることが分かります。

表5-1 中国の農産物販売総額シェア単位:%
  1978年 1980年 1985年 1990年 1995年
政府公定価格 92.6 82.3 37.0 25.0 17.0
政府指導価格 1.8 9.5 23.0 23.4 4.4
市場調節価格 5.6 8.2 40.0 51.6 78.6
出所)
中兼和津次「中国経済発展論」有斐閣、1999年、204ページ。
大橋英夫「シリーズ現代中国経済5:経済の国際化」名古屋大学出版会、2003年、45ページ。


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5-1-2 農業・農村改革の意義
 次に、1979年から開始された農業・農村改革の意義を簡単に整理しておきましょう。それは次の三点にまとめられると考えられます。

(1)「食」の解決
計画の時代における中国の懸案の一つは、「食」の解決でした。また、この食の解決があって初めて改革・開放後に衣料・住宅・耐久消費財等の「大衆消費社会」が出現可能となったのです。
 図5-2は1949年から2001年までの52年間にわたる中国の人口一人当たり食糧生産量(小麦・米・トウモロコシ・豆・芋)の推移です。これによると改革・開放初期において、一人当たり食糧生産が顕著に増加していることが分かります。一つに肥料・農薬等の投入増加がありますが、農業生産増加の最低4割は農業・農村改革にともなうインセンチブ改善によっていると言われています。

図5-2 中国の一人当たり食糧生産量
図5-2 中国の一人当たり食糧生産量
資料)
国家統計局農村社会経済調査総隊編「新中国五十年農業統計資料」2000年、国家統計局人口和社会科技統計司編「中国人口統計年鑑」1995/2002年、国家統計局編「中国統計年鑑」2002年。

(2) 都市・農村格差の縮小
計画の時代では、毛沢東の「均富論」により農村間あるいは都市間の格差はあまりありませんでした(図5-3)。しかし都市と農村の間には「戸籍制度」という厚い鉄のカーテンが張り巡らされていただけでなく、毛の理念とは逆に都市・農村の生活水準格差は拡大していたようです。
この歴史に初めて風穴を開けたのが農業・農村改革であり、80年代前半まで農村部生活水準改善により都市・農村格差が縮小しました。しかしそれもつかの間の出来事であり、改革が都市部へ拡大された80年代後半から再び格差が拡大し、現在に至っています。

図5-3 中国の地域別・都市農村別一人当たり実質消費
図5-3 中国の地域別・都市農村別一人当たり実質消費
注)
東部は北京、天津、河北、遼寧、上海、江蘇、浙江、福建、山東、広東、海南、広西、中部は山西、内蒙古、吉林、黒龍江、安徽、江西、河南、湖北、湖南、西部はその他。

資料)
国家統計局国民経済総合統計司編「新中国五十年統計資料匯編」1999年。

(3) 農業が成長の原動力
第三番目のポイントは、1980年代前半までの中国の成長の原動力が農業であったということです。次の表5-2は中国の実質経済成長率の部門別・所有制別寄与度を計算したものです。これによると1979-84年の成長のうち、31.8%が農業成長によるものであったこと、そしてこの部分が最大の寄与度を示していることが分かります。

表5-2 中国の成長要因単位:%
  1979-84年 1985-93年 1979-93年
第一次産業 31.8 11.6 16.5
工業 国有企業 20.3 11.7 13.8
    非国有企業 13.8 45.5 37.8
    集団所有制企業 12.8 28.9 25.0
    個人所有企業 0.2 7.7 5.9
    その他 0.8 8.9 6.9
建設 5.2 5.9 5.7
第三次産業 28.9 25.3 26.2
合計 100 100 100
注)
表の計数は各期の成長のうち各項目がどの程度の寄与をしたかを表す。

出所)
J.D.Sachs and W. Woo, Understanding China's Economic Performance, NBER Working Paper No.5935, Feb.1996.

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