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modern chinese economy
12-4. 人民元切り上げ圧力
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史


12-4-1 人民元切り上げの大合唱
 こうした中国の国際収支黒字拡大や中国の貿易拡大等を背景として、人民元の切り上げが話題となってきました。特に熱心なのは日本の財務省であり、「人民元は過小評価」との政治的キャンペーンを繰り返し行ってきました。またお隣の韓国や東南アジア、さらには欧州・アメリカと、その同調者は拡大していくばかりです。こうした日本の態度は、かつてアメリカが日本に対して行ってきたことと少しも変わりません。この意味では同じ歴史が攻守所を変えて繰り返えされているのです。

 図12-4は各国・地域の対米ドル為替レートの推移を、2002年1月を基準として指数化したものです。ここで計数が上昇すると、当該国通貨は米ドルに対して切り上がったことを(例えば円高・ドル安になったことを)、逆の場合切り下がったことを表します。この図によると2002年以後ユーロ、円、韓国ウォン、シンガポール・ドル、タイ・バーツ等の変動相場制を採用する国の通貨が米ドルに対して切り上がる一方で、中国人民元の対米ドルレートはほとんど変わっていないことが分かります。日本や欧州・韓国・シンガポールといった国では景気がいま一つぱっとしないため、米ドルにリンクして変動する(つまりユーロや日本円・韓国ウォン・シンガポールドル・タイバーツに対して自動的に減価する)仕組みを採用している中国が批判の矢面に立たされているわけです。また、中国の対米輸出は激増していますので、アメリカからも批判が出ました。

図12-4 各国・地域の対米ドル為替レート(2002年1月=100)
図12-4 各国・地域の対米ドル為替レート(2002年1月=100)
注) 計数が上昇(低下)するとき、当該国通貨は米ドルに対して増価(減価)していることを表す。
資料) IMF, International Financial Statistics その他。


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12-4-2 中国の国内事情
 問題は次の二つに集約されるように思われます。

(1) 人民元の過小評価
(2) 対米ドル人民元レートの伸縮性の程度

 第一の過小評価については、技術的意味での過小評価と政策的意味での過小評価を区別して考えることが有益です。前者の技術的意味での過小評価の程度を正確に測ることは困難ですが、中国の国際収支が黒字であるから人民元は切り上がってしかるべきというのが一般的な評価でしょう。しかし、その背後にある「自由な市場取引に為替レート形成を委ねるのが最善」という暗黙の前提は、日本の経験からすればあまり妥当性はないように思われます。実際、日本は為替レートの乱高下にひどく悩まされてきた国であることを想起して下さい。なお、より長期のトレンドについては後に説明します。

 より重要なのは第二の「政策的判断を伴う過少評価」です。日本と異なり中国では為替レートは人民銀行がコントロールする政策変数だからです。しかし、現在の中国において人民元レートを切り上げる政策的理由はまったくと言ってよいほどありません。なるほど中国の国際収支は黒字なのですが、単純にそれを反映して人民元の切り上げを行うと中国経済はその後どのようになるのでしょうか。例えば日本は経常収支という面では慢性的な黒字国ですが、だからと言って「円高・ドル安」にせよと外国から要求されたとき、デフレに悩む日本国政府はYesと答えるでしょうか。これと同じで、現在の中国は「国内事情」から切り上げは困難と見ておくべきです。具体的には次の通りです。

(1) 中国は1990年代央から慢性的な過剰設備とデフレに悩まされてきた(7章を参照して下さい)。
(2) 同時に7-8%程度(地域によっては二桁)の「高失業率の時代」が到来している(8章を参照して下さい)。
(3) 国有商業銀行の経営健全化が遅れており、成長鈍化はその改善を遅らせる。
(4) 財政制度の欠陥により、現在、地域間の主要な所得再分配メカニズムは出稼ぎとその送金に頼らざるを得ない。そのため人民元切り上げによる東部の雇用機会減少は中国の社会安定を損なう可能性が高い。

 確かに東部都市部およびその郊外だけを観察すれば中国は非常に活気のある国なのですが、全体としてみれば依然多くの困難を抱えていると言わざるを得ません。切り上げ実施後のデフレ圧力を政策によって吸収するフリーハンドはそれほど多くないのです。実際、2002年以降の輸出激増や企業進出の活発化、さらには国債発行による政府投資の拡大等があっても中国の成長率は7-8%がやっと、しかもそれでも毎年1000万単位で増加する労働力人口を吸収するためのミニマムでしかないのです。

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12-4-3 日本の経験
 当時の国際基準は固定相場制でしたので直接比較は困難ですが、中国人民元の対外為替レートの今後を占う一つの参考は、戦後日本の経験です。具体的に言うと、日本は1949年から1970年代初頭まで1米ドル=360円という現在の中国と同じ米ドル・ペッグ制を採用していました。そしてこの為替レート制度の下で、長らく「円の過小評価(日米の製造品価格を等しくさせる為替レートに比べて、実際の為替レートは円安・ドル高であった)」を経験してきました。その仕組みが1971年8月15日のニクソンショックによって崩壊し、円の過小評価は円切り上げによって一挙に解消されたのです(図12-5)。

図12-5 円ドルレートと貿易財購買力平価
図12-5 円ドルレートと貿易財購買力平価
注) 貿易財購買力平価とは日米の貿易財(第一次産業や製造業等の貿易になじむ製品・サービス)価格を等しくさせる為替レートを指し、日米の輸出等デフレータから計算した(1992年第4四半期の貿易財購買力平価150.5円/ドルを基準とした)。
資料) 内閣府HP、米商務省経済分析局HP、IMF, International Financial Statistics。

 その背後には、日本の製造業の国際競争力の改善がありました。日本では1960年代初頭において労働の希少化という意味での転換点通過に成功し、その後も重化学工業を軸として持続的な生産性改善が進行しました。そのため製造業を起点として全国ベースでの賃金上昇圧力が形成されていき、インフレーションの芽が育くまれます。そのピークが1970年代初頭であり、当時の日本では円の切り上げという為替レート調整以外にインフレ圧力を吸収する方法がなくなったのです。

 この日本の経験から言えば、中国元の大幅切り上げは国際収支の黒字定着に加えて、国内にインフレ圧力が形成された時です。こうしたジレンマ・ケースでは為替レート安定に固執すると、どうしてもインフレ圧力が加速してしまうからです。ところが中国の現状は(1)依然、転換点通過に成功していない、(2)効率的な産業金融の仕組みが未実現等と、当時の日本とは全く状況が異なります。残念ながら現在の中国は雇用確保に四苦八苦している状況で、その段階に達していないのです。

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