社会調査工房オンライン-社会調査の方法
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4-2 表象分析
4-2-3 広告分析の理論


(1)広告作業―[記号表現・記号内容]
 センセーショナルな広告は、あなたの興味を引くかもしれませんが、危険でもあります。なぜなら、その広告の放つ強烈な「メッセージ」にのみ目を奪われてしまうからです。
「広告とはその背後にひかえている『メッセージ』を伝えるための透明な媒体にすぎないと信じこませるのは、広告が持つ欺瞞的な神話作用の一部なのである。確かに、あらゆる広告の大部分は、そうした『メッセージ』からなっている。メッセージにおいて、私たちはある製品についてなにごとかを語りかけられ、またそれを買うよう求められている。そこで私たちに与えられる情報は、しばしばいつわりであるが、情報が正確な場合でさえ、必要でもない製品や、環境を破壊しながら作られ、生産者の犠牲のうえで利潤を生むために売られるような製品を買うよう、私たちは何度となく説得される。このような理由から、広告製作を批判するのは根拠のあることであって、私もそうした批判を支持したい。」(I巻、pp.31-32)
 これは、ジュディス・ウィリアムスンという英国の文化理論の研究者が、『広告の記号論』という著作の最初の方で述べている言葉です。
 昔、わたしが会社勤めをしていた頃、ビジュアルの魔力にとりつかれ、どうしてもその魔法を解明したいと思ったことがあります。ハードな生活の合間を見つけて(仕事をサボって)、ジョン・バージャーの『イメージ』[原題:Ways of Seeing ]や美術史の本をひとりで読み漁るなかで、ビジュアル分析の仕方やその意味について最も深く具体的に教えてくれた一人が、ジュディス・ウィリアムスンでした。出版されてからだいぶ時間がたちますが、広告やビジュアル、現代思想に興味を持つ人には今でも格好の入門書だと思います(原題は、Judith Williamson, Decording Advertisements, 1978)。翻訳書を探して是非読んでください。(ジュディス・ウィリアムスン『広告の記号論III』(山崎カヲル・三神弘子訳、柘植書房、1985年 ⇒ 甲南大学・OPAC http://library.konan-u.ac.jp/
 さて、J.ウィリアムスンは、先に引用した言葉に続けて、次のように述べています。
「とはいえ、その種の批判は多くの場合、現代社会における広告の役割を真に理解することにとって、最大の障害物なのである。というのは、そうした批判は、広告とはなんらかの望ましくないメッセージの不可視の送り手にすぎないという仮定を土台にしており、広告の「形式」にではなく表面的な「内容」のなかに意味を見出しているからである――別言すると、それは「形式」が持つ「内容」を無視しているのである。」(I巻、p.33)
 一度読んだだけでは難しくてわかりにくいかもしれませんが、わたしは初めてこの部分に触れたとき、我が意を得たりと、とても嬉しかったことを今でも覚えています。彼女は同じ本の別の箇所で、次のようにも語ってます。
「広告は広告に対する批判を参照枠として利用することで、常に批判の打撃から回復することだろう。このような参照枠は広告の『真の』位置を破壊するよりは、むしろ最終的に高めるものである。」(II巻、p.208)
「したがって広告は、広告の欺まん性とか、『資本主義的』であったり『性差別主義的』であったりすることの実害を土台にする広告批判から、いつもするりと逃げ出すのである。そうした批判に説得力がないからではなく、広告が機能する仕方についてのイデオロギーを、そうした批判が顧慮しないからである。」(II巻、p.210)
 これで、だいぶ理解しやすくなったのではないでしょうか? ここで誤解しないでほしいのは、ウィリアムスンは、ある種の広告を『資本主義的』『性差別主義的』であると批判することを軽視したり揶揄しているのではないこと。むしろ、そのような広告批判の重要性を十分に認識しているからこそ、それらの批判が拠って立つ理論の決定的な脆弱さを直視し突いているということです。わたしがこの本と初めて出会った頃、日本でもフェミニストたちによる広告批判はさかんに行なわれ、社会的にも少し注目されていました。実際、街に氾濫する広告のなかには、レイプを連想させるシーンや女性への暴力を肯定するようなイメージが存在し、広告主への抗議も行なわれました。そのような時代のなかにあって、あるイメージを性差別的であると指摘し批判する作業には、『広告の記号論』のような視点と思考が不可欠であると思ったのです。
 この本のなかでウィリアムスンは、「形式と内容」にかわって、「記号表現と記号内容」(Signifier / Signified)という用語を用いることによって、より精緻に広告を読み解くことを提唱しています。では「記号表現」とは何なのでしょうか? 同書では「記号表現」が演じる役割について、タイヤの広告を例に挙げて説明していますが、わかりやすいので引用してみましょう。
(2)記号表現
 例に挙げられたグッドイヤー社の広告は、同社の自動車タイヤがいかに優れているかを宣伝したものです。制動性能のテストを行ない優れた結果を得たことが、広告に書き込まれた文字テクストによって主張されています。
 「…スーパースティール・タイヤは、交通規制で決められた停止距離の半分のところで、私を止めてくれた。この桟橋のうえでも、スラロームで走るとタイヤははっきりしたラインを描いた――三万六〇〇〇マイルも走ったあげくなのに。」 この文字テクストは、同社の「タイヤが安全で耐久性を持つことを示す論理的根拠」となっていますが、これは表面的な意味にすぎません。
 ウィリアムスンは、写真のビジュアルに注目して分析を進めていきます。写真には、海にせり出した桟橋と、桟橋の末端のぎりぎりのところで止まった車が一台、そして、その車から降りたばかりに見えるドライバーが一人、写っています。車がどれくらいの距離で止まるのか、タイヤの実験を無事終了した直後というシーンです。タイヤの品質が悪ければ、手前の海にドライバーもろとも車は突っ込んだことでしょう。桟橋は、海に突っ込まずにすんだタイヤの優秀さと安全性を伝える劇的な演出手段であり、桟橋の機能は、「広告における『記号内容』の伝達におけるその位置だけから生じている」かに見えます。
 重要なのは、この次の分析です。よく読んでみましょう。
「しかしながら、桟橋の意義は、実際のところ危険とは正反対なところにあって、広告の文正面の合理的な語りとは無関係な仕方で作用している。その機能は、記号内容の軸とはまったく別個な軸のうえで、記号表現という第二の役割をなしており、記号内容軸と垂直に交差しているのである。桟橋の概観はタイヤの概観と似ており、その曲線もタイヤの形を示唆するものである。つまり、桟橋全体がひとつの大きなタイヤなのだ。…(略)…桟橋はがんじょうで強く、水や腐食に耐え、摩滅したりしない。外見上の類似性のおかげで、私たちは[この]タイヤも[桟橋と]同じだと思いこむ。写真においては、桟橋は実際の車をすっぽり取り囲み、危険な海の真っ只中でしっかりと車を保護して包みこんでいる。同様に、車とドライバーの一切の安全はタイヤのなかに含まれる。タイヤこそが自然の諸力に対抗して車を支えるのである。かくして、タイヤの制動力についてのメッセージを伝える道具の一部でしかないと見えたものが、メッセージそのものに変貌する。それは公然とではなく、ほとんど無意識的なレヴェルで働くメッセージである。…つまり合理的な基盤を持たず、外観、並置、共示作用を土台にしてなされる飛躍によって、ふたつの対象(タイヤと桟橋)のあいだに作られる結びつきである。」(I巻、p.35-36)
 著者は、桟橋の外観がタイヤそっくりであることから、桟橋自体がひとつの大きなタイヤであると指摘しています。その外観の類似性ゆえに、桟橋のがんじょうさと危険な海から人・車を守る安全性は、G社のタイヤのがんじょうさ・安全性に結び付けられるというわけです。しかも、1.その「結びつき」は、論証や物語などの線にそって行なわれるのではなく、「写真のなかでの双方の位置関係によって、つまり形式的構造によって結びつけられている」こと。2.「意義のこうした移転は、広告のなかで完全なものとしては存在しておらず、私たちに結びつきを作るように要求している」こと。3.「移転が基礎を置いているのは、第一のモノ(桟橋)が移転さるべき意義を持っているという事実」にあることに、ウィリアムスンは注意を喚起しているのです。
 記号表現の行なう作業は、「より明示的な『記号内容』と同じくらい、イデオロギーや社会的慣習の一部をなして」います。その広告を受け入れることは、広告に含まれたイデオロギーや社会慣習を受け入れることであり、それらの再生産に参加することだというわけです。
 ここまでの話は、広告分析の理論のごく一部にすぎません。続きを知りたい人は、本をどうぞ。

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