社会調査工房オンライン-社会調査の方法
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4-2 表象分析
4-2-4 ビジュアル分析の第二段階 - 1枚のビジュアルに注目する


(1)毒を薬に変える??
 再びベネトン社の広告に話を戻しましょう。
 1980年代から90年代にかけて15年間で売り上げを15倍に伸ばしたと言われるベネトン社の広告ですが、これまで話題になったのは、先に述べたようにスキャンダラスな広告でした。それらは人種や民族の対立、エイズ、戦争、マフィア、カトリックの戒律、公害、死刑などを扱っており、広告を賛美するにせよ、批判するにせよ、もっぱらウィリアムスンの言う「記号内容」を問題にしていたと言えます。では、ベネトンの広告をめぐって「記号表現」を考えるとはいかなることであり、またどのような視点を分析に持ち込むことが可能なのでしょうか?
 「広告は広告に対する批判を参照枠として利用することで、常に批判の打撃から回復することだろう」(ウィリアムスン)。実際、1990年代のベネトン社は、ウィリアムスンが指摘するように、自社に対する広告批判を意識的に利用していたように見えます。彼らは、広告とは常に不正直なものだという批判者の信念を利用して、あらかじめ広告のウソについて語ることによって、自らの正直さを証明しようとしてきました。広告批判自身が回収される構造を見定め、広告が機能する仕方についてのイデオロギーを考えること。『広告の記号論』の結論の扉には、次のような意味深長な言葉が引用されています。
 「資本主義は、おのれの顔に投げつけられた毒を、ただちにつぎつぎと薬に変え、しかるのちにそれを楽しむだけの力を持っている。」(ベルトルト・ブレヒト『演劇論』) なかなか、広告分析はやっかいです。
(2)ハダカは「正直」の証か?
 ベネトン社の宣伝で話題になったひとつに、社長のルチアーノ・ベネトン自らが裸になって登場した広告があります(1993年春夏)。1993年に発表された広告は、二枚一組のイメージから構成され、それぞれに社長の全裸の姿が写っています。彼の身体の上には「わたしの服を返してください」「洋服ダンスをカラッポにしよう」という文字テクストが真ん中に大きく書き込まれ、その下の社長の裸体を隠しています。洋服のリサイクルを呼びかけたコピーですが、全裸の社長が登場したために、発表当時話題を呼びました。社長はメガネ以外何も身につけず、白い背景からくっきりと浮かび上がってみえます。彼は正面を向き、メガネの奥からこちらを見つめています。この広告を見た学生たちは、社長を「正直そうだ」とか「思い切ったことを断行する」「ありのままの姿をさらしている」と感想を述べてくれました。この広告はインターネットで検索すれば、すぐに見つけることができるでしょう。あなたもこのビジュアルから、「正直そうだ」「本当のことを言っている」という印象を持つでしょうか?
 そこで考えてほしいのです。なぜ、この男の裸は「正直そう」に見えるのでしょうか?
 この男性は、背筋を伸ばして両手を下腹部の前で組み、両足を少し開けて立っていますが、別のポーズをしていたらどんな印象になるでしょうか? 別のポーズ? たとえば、ギリシア彫刻の英雄のようなポーズや、ロダンの考える人、あるいはピンナップのお決まりのポーズでもかまいません。ビジュアルを分析するとき、わたしたちは目の前にある図像にとらわれてしまい、それを「自然」のものとして考える傾向がありますが、全く異なったポーズや、性や「人種」を入れ替えて見ると、その「自然さ」が何を根拠に成り立っているのか、はっと気づかされることがあります。さらに、背景を入れ替えるとどうなるでしょうか? その図像に登場しないものはなにか? なぜ登場しないのか・・・などを考えてみましょう。
Try!
⇒ ビジュアルの言語化
ビジュアルを分析するためには、ビジュアルを言語化しなくてはなりません。「すごくきれいな広告」とか「ハダカのオトコが立っている」と言っても、イメージはほとんど伝わりません。完全にビジュアルを言語化するのは不可能ですが、言語化する過程で、あなたにはどんどん新しいものが見えてくるでしょう。 まず、分析したいビジュアルを一枚、言葉で説明してください。見えるものをどんどん列挙するのです。具体的に。立っているなら、どのように? 正面向きか横向きか? 登場人物は何を見ているか? 視線・色彩・ポーズ・背景に注意してください。さあ、始めてください。そして、その説明をビジュアルを見ていない他の人に読んでもらって、絵に描いてもらってください。どのような説明をする必要があったのか、わかるでしょう。
(3)「ヌード」と「裸」
 では、社長が裸で登場した広告が、なぜ「正直な社長」のイメージをもたらすのでしょうか?
 そのことを考えるために、ちょっとまわり道になるかもしれませんが、西洋美術が「ヌードnude」と「裸naked」という重要な概念をどのように捉えてきたのかをふり返っておきましょう。
 まず、このふたつの概念を明確に区別し定義したのは、イギリスのケネス・クラークという人です。ロンドンのナショナル・ギャラリー館長、王室コレクション鑑定者、イギリス美術協議会会長など「イギリス文化に影響力を持つ公的地位をほとんど歴任した」と言われるクラークは、1956年に出版された『ザ・ヌード:裸体芸術論――理想的形態の研究』の冒頭部分において、最も有名な次の一節を残しました。
「英国語は、その巧緻で幅の広い語彙でもって、はだか(naked)と裸体像(nude)とを区別している。はだかであるとは、着物が剥ぎ取られていることであり、そこには、たいていの者ならそんな状態になれば覚える筈の、当惑の意が幾分か含まれている。これに対して裸体像という語は、教養ある使い方をすれば、別に不快な響きは伴わない。それがわれわれの心に漠然と投影するイメージは、丸くちぢこまった無防備な身体のそれではなくて、均整のとれた、すこやかな、自信に満ちた肉体、再構成された肉体のイメージである。」(K.クラーク『ザ・ヌード』美術出版社、p.17)
 つまりクラークによれば、「裸体像(nude)」とは、「均整のとれた、すこやかな、自信に満ちた肉体、再構成された肉体のイメージ」であり、「不快な響きは伴わ」ない「芸術の一形体」です。一方、「はだか(naked)」は、「丸く縮こまった無防備な身体」「着物が剥ぎ取られていること」「当惑の意が含まれる」と説明しています。つまり、ヌードとは、現実の肉体である物質を、理想的な芸術である形態に変換させられたものだというわけです。
 これに対して、1970年代初め同じくイギリスで、ジョン・バージャーという批評家はクラークの定義に異議を唱え、次のようにヌードと裸を定義し直しました。
「裸になることは本来の自分になることである。
ヌードであるということは他人に裸を見られるということであり、本来の自分を気づいてもらえないことである。裸の肉体がヌードとなるためには、まずオブジェとして見られなくてはならない …(略)… 裸になることは偽りを持たないことである。」(J.バージャー『イメージ』パルコ出版、p.67)
 つまり、ジョン・バージャーにとって「裸」とは、「本来の自分」「偽りを持たないこと」であるのに対して、「ヌード」は、「他人に裸を見られること」「本来の自分に気づいてもらえないこと」「服装の一種」であると定義されるのです。
 さて、服を脱いだ身体としての裸が「偽りを持たない」姿であるというバージャーの解釈を読んで、みなさんは、ベネトンの社長の全裸広告が「正直者」をアッピールした理由が理解できたのではないでしょうか。両手を前で組み、正面を向いてこちらを見据えるルチアーノ・ベネトンの身体は、一見ぶっきらぼうにカメラの前に立っただけかのように見えますが、そのぶっきらぼうさ、率直さ、飾り気のなさは、彼がいかに正直であるか、ベネトンがいかに正直で偽りのない会社であるか、リサイクルを訴える良心的な会社であるかをアピールする効果を増しています。先のケネス・クラークがネガティブなイメージとしてとらえた裸の「無防備さ」は、「ありのまま」や「正直さ」にいとも容易く転化するのです。社長のポーズは、ギリシア彫刻風や女性ヌードのピンナップ風であってはならないわけです。
(4)身体表象
 ジョン・バージャーの『ものの見方 Ways of Seeing 』は、1970年代初頭、当時のイギリスの文化人たちによって熱狂的に受け入れられたそうです。でも、バージャーの「nude / naked」の二分法がクラークの裏返しに過ぎないことは、やがて、イギリスの美術史家たちによって批判にさらされるようになりました。
「バージャーのエッセイは、クラークの<悪い>裸と<良い>ヌードという解釈を単に裏返しただけにすぎない。ヌードは決して<正体を現わさない>制度である。一方裸はヌードがその永遠の偽装ゆえに失ってしまったが、求められ獲得可能な状態であるということを示唆している。…ここで言うヌードとは、かつては真の女性を曝し得ると認識されたイメージのカーテンであり、ヴェールなのである。」(Marcia Pointon, Naked Authority, 1990, pp.16-17.)

「ヌードに対立する裸の『他者』など存在しえない。なぜなら、身体は、つねにすでに表象においてあるからだ。」(リンダ・ニード『ヌードの反美学』p.37)
 さらに、リンダ・ニードというフェミニストの美術史研究者は、バージャーが「Naked」を西洋社会の父権制的慣習を逃れた権力の外部にある私的な愛の空間の表現としてとらえていることを批判しました。「公的=権力」vs「私的=反権力」の図式は、「ヌードnude」vs「裸naked」の二分法と重なる形で機能し、私的に裸にされた女とその表象は、それが反権力という意味付けをされるがゆえに批判が容易でなくなります。この議論はさらに、「私的/公的」という区分が、どのような役割をはたしているかという興味深いテーマにつながっていきます。
 さて、「ヌード」と「ネイキッド」のどちらを上位の概念に置くにせよ、クラークとバージャーの二分法の基礎となっているのは、「文化/自然」の二元論ですから、それゆえ西洋批判として女性の裸の身体に代表される「自然性」を持ち上げるバージャーが、その後、フェミニストたちによって批判されたことは当然と言えるでしょう。「ヌード」であれ「裸」であれ、両者とも「表象」としてとらえること、「ヌード/裸」という二分法そのものを疑うこと。そのような視点に立って今日のわたしたちの文化――高級芸術から大衆文化にいたるまで――を眺めるとき、そこに描かれたハダカの身体がどのようなメッセージを放っているのか、そしてそのメッセージが拠って立つ根拠をあなたは見抜くことができるでしょう。

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