5-2-8 記録を読み解く/フィールドワークをつくる
忘れられたコミュニティ開発プロジェクトの成功 ハマースミス・コミュニティ開発プロジェクト代表者Dへのインタビュー
取材の経緯
ハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトは、ネイバーフッド・カウンシル結成し住民自らが貧困や都市の社会問題に取り組む体制をつくるという1970年代のコミュニティ開発の実験的な試みであった。その成果が、今日まで存続するグローブ・ネイバーフッド・センターである。地方自治体の関係者を説得して協力体制をつくり、コミュニティ開発プロジェクトのアイデアを住民に直接に説明し人々を動かした中心人物がプロジェクトの代表者であるRevd. David Mason(以下Dと略す)である。私にとってはDは、30年前のハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトの書類のなかに登場する歴史上の人物であった。ところが、2003年8月18日、グローブ・ネイバーフッド・センターでジャンブル・セールを手伝っているときに、Bから昨年Dが歩いているのを見た、という話を聞いた。しかし連絡先は分からない(ビデオ・カメラとセンターの日常[5-2-6])。 8月22日、グローブ・ネイバーフッド・カウンシルの最初のメンバーの1人であり、グローブ・ネイバーフッド・センター常勤のスタッフとなった女性に、センターに来てもらい3時間にわたって1970年代のセンターの活動やグローブの移り変わりについて話を聞いた。インタビューのなかで、彼女はDから学んだという「草の根(グラス・ルーツ)」という言葉を繰り返した。
「大学で学位までとったけれど、結婚して3人の娘を育てた。ある日、家の扉にハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトのパンフレットが入っていて、住民集会についての案内が記されていた。集会では大勢の人々が集まり熱気をおびていた。Dが演説し、そのとき初めてネイバーフッド・カウンシルというものを知った。彼のグラス・ルーツの考えに感銘を受けた。関心のある人は名前と連絡先を書き残してください、という呼びかけに応じた。ある日、Dが私の家を訪ねてきて、カウンシルの委員に立候補しないかと誘われた。自分が住んでいる通りから2名が立候補したが私が当選してネイバーフッド・カウンシルの初めての委員となった」。
彼女は30年前のDのことをよく覚えていたが、現在Dが生きているのか、どこにいるのかについてはわからない。現在のグローブ・ネイバーフッド・センターの関係者のなかで、B以外にDと面識がある人を私は知らない。Dを探す手がかりはなかった。 8月後半は、Nのファミリー・ヒストリーの調査についてインタビューするためにN宅に何度か通った(Nのフィールドワーク[5-2-6])。Nの調査のプロセスについて彼からさまざまな話を聴きながら、私も自分の調査研究の経過についてN夫妻とよく雑談した。Dの行方を捜していることも彼らに話をした。9月1日朝、Nから次のようなメールを受信した。「MUGIKO,我々はラッキーだ!Dは×××に住んでいる」、短いメッセージとDの住所、電話番号が記されていた。Nがメソジスト教会のロンドン本部にDについて問い合わせてくれたのである。すぐにその電話番号に連絡した。要領をえずに自己紹介と調査の説明をする私のことばを聞きながらDは、「つまり、私の話を聞きたい、ということだね」と彼のほうから取材を受けてくれた。翌朝10時に氏の自宅を訪ねることになった。 Dに会って、とくに3点を確かめたいと考えていた。第1に、ハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトの対象としてグローブを選んだ真意はどこにあるのか。プロジェクトの『第1回報告書』には、きわめて「普通」の貧困区であることが強調されている。ところが、他の書類には、グローブはロンドンのなかでもとくに貧しい区の1つであると強調されている。第2に、ハマースミス・コミュニティ開発プロジェクト(および都市貧困問題委員会)とハマースミス自治体とグローブ・ネイバーフッド・カウンシルの関係についてである。全国レベルの非営利組織、地方自治体、住民組織という異なる次元で活動する3つの組織の関係についてプロジェクトに関わった当事者からの話を聞きたい。第3に、30年前のグローブにはどのようなローカル・コミュニティがあったのか。現在ではグローブ・ネイバーフッド・センターの活動が基盤とするコミュニティの存在を見出すことは難しい。かつては現在とは異なる状況であったのだろうか。
Dへのインタビュー/媒介者としての支援
Dは長身の70歳半ば(推定)のかくしゃくとした老紳士だった。ハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトを終了したあとは、アフリカをはじめとする海外で牧師として、コミュニティ開発や人権問題の専門家として活動を続け、数年前にハマースミスに戻った。「30分後には外出しなければならないから、私が先にまとめて話します。その後に質問してください。録音するものはありますか」と言うやすぐに演説風の話が始まった。録音したインタビューを、ここでは、上記の3点を中心に、私の質問をはぶき、彼の話の要約を記す。
「ノッティング・ヒルは、人種暴動などで世界的に有名な地域でしたので問題がはっきりしていて、ある意味で活動しやすかったのです。そこで次は、同様のコミュニティ・ワークをもっと普通の地域で実践してみようと考えました。インナー・ロンドンの典型的な区としてハマースミスのグローブを選びました。裕福でも、貧しくもなく、そのときはファッショナブルではありませんでした。グローブは、1972年時点では、どこにでもあるような界隈(ネイバーフッド)でした。コミュニティ・ワークの基本原理は、犯罪が蔓延するノッティング・ヒルのような地域だけでなく、他のどこで実践しようと有効であることを証明することが我々のプロジェクトの目的だったのです。
グローブは、たしかに特別な問題のない普通の区です。しかしそうした地域でも、劇的な大問題でなくても、住民の共通の利益となるような、たとえば地区内での車のスピード規制といった問題はあります。これまで個々人が対処すべきだと考えられていた日々の暮らしの中の問題、とくに住宅問題に取り組んでゆきました。教会のホールで集会を開き自宅訪問を実施し、他人事だ、どうしようもないと放置されていたことを住民組織が問題化し、支援、アドバイスをしてゆくのです。ロンドンのように匿名性の高い都市では、そうやって住民がネイバーフッドにたいするアイデンティティをもつようになることは重要です。地方自治体では規模が大きすぎます。人が住んでいる通りレベルの自治組織が必要です。ネイバーフッド・カウンシルは、普通の人々が直接に参加して、身近な問題について考えることができる組織だと確信しています。 ネイバーフッド・カウンシルのモデルはイギリスのパリッシュ・カウンシルです。パリッシュ・カウンシルを都市の文脈においてみるというアイデアです。パリッシュ・カウンシルは法的地位があり多少の財政的基盤がありますが、私たちのプロジェクトには資金はなく、タウン・ホールを動かさなくてはなりません。地方自治体とは仕事をすすめるうえでの友好関係を築いていこうと考えていました。バラ議会の議員と知り合いをつくり、タウン・ホールのとくに社会事業局とは密な関係をもちました。社会事業局は、我々のプロジェクトにソーシャルワーカーを派遣し給与を払いました。優秀な女性ワーカーがフルタイムで関わってくれたことは、プロジェクトを推進するうえで大きな力となりました。 コミュニティ・ワークの考えを広め理解してもらうために、自治体の議員やタウン・ホールの役人と話し合いました。大学の社会事業学部から学生たちが手伝いに来てくれました。ハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトはネイバーフッド・カウンシルの生みの親です。住民たちは、最初はネイバーフッド・カウンシルについてまったく知りませんでした。我々は大きな住民集会を開き、ネイバーフッド・カウンシルについて説明し、質問を受け、2時間、3時間と議論をしました。すでにノッティング・ヒルでの先例があったので、その考えは住民たちには受け入れやすいものでした。ただし我々が指導者ぶったりしないように気をつけました。我々がネイバーフッド・カウンシルを組織するのではなく、カウンシルの中心は、あくまでも彼ら住民たちですから。 選挙制度改革協会(Electoral Reform Association)からの無償の協力をえてネイバーフッド・カウンシルの委員を選出する住民投票が実施されました。役場のリーダーたちも、選挙事務を手伝ってくれました。1973年の第1回の選挙では、イギリスで従来から行われている選挙方式、小選挙区制にしていました。グローブをさらにいくつかの選挙区にわけて各区分から1名の委員を選出するというかたちです。しかし、それでは小さな区分のなかで議席を争い優秀な人が複数いても1名しか選出されません。次の1975年の選挙では、選挙制度改革協会のアドバイスを受けてイギリスでは当時まだ一般的ではなかった比例代表区制の選挙方式にかえました。グローブ全体を1つの選挙区と考え、投票では立候補者の名簿に委員に最もふさわしいと思われる人から1から10まで番号をつけてゆくという方式です。 グローブ区は、1972年までは地方自治区内の選挙区を示す専門用語にすぎず、地域の普通の人々にとって何の意味もない単語でした。人々は、ブラドモア通りに住んでいる、グレソン通りに住んでいるという言い方をして、わざわざグローブ区と言うことはありませんでした。ところが、グローブ・ネイバーフッド・カウンシルが結成されることによって、区内に住んでいる人々のあいだで一体感をもった言葉となったのです。ネイバーフッド・カウンシルが住民にグローブにたいするアイデンティティをもたらしたのです。ネイバーフッド・カウンシルのアイデアを示したのは都市貧困問題委員会ですが、その考えはできるだけ早く地元の本来のリーダーたちの手に委ねなければなりません。我々はネイバーフッド・カウンシルの結成、活動にたいしてできる限りのことをしましたが、あくまでも媒介者としての支援です。私たちのハマースミスでの活動はグローブにおいてのみですが、コミュニティ開発のモデルとして各地に普及してゆきました。私は長くイギリスを離れていましたから、今のグローブやグローブ・ネイバーフッド・カウンシルのことはよく知りません。しかし、現在でもグローブ・ネイバーフッド・センターが存在しているのですから、我々の試みは成功したのだと思います。」
ハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトの理念と戦略/忘却という成功
Dがめざしたコミュニティ開発とは、対面的な社会関係が成立しうる程度の小規模な地域において住民組織をつくり、生活のなかの身近な事柄を住民自らが問題化しその改善に取り組む草の根の運動である。既存の地域社会や住民グループに依拠するのではなく、ネイバーフッド・カウンシルの結成と運営という実践をとおして住民たちのなかから地域へのアイデンティティを生み出してゆくことが、彼らが都市部で試みた運動としてのコミュニティ開発の特徴である。 グローブ区は、都市貧困問題委員会のコミュニティ開発の理念を実践、普及させるために、それにふさわしい人口規模と「貧困」と「普通」を兼ね備えた地域としてプロジェクトの対象に選ばれた。都市貧困問題員会は、国会議員をはじめとした政治家、官僚、学者、宗教関係者などが集まった団体である。当時の中央政府の政策の流れをじゅうぶんに把握していると同時に、コミュニティ開発に携わってきた経験をとおして地方自治体との関係の難しさを痛感してきた。住民の声が行政に届き政治的な意味をもつためには、地方自治体と住民組織のあいだの協同路線を確立しておかなければならない。ハマースミス・コミュニティ開発プログラムの報告書や書類、Dの話からは、自治体との関係に細心の注意を払い、コミュニティ開発についての理念を押し通すだけではない、活動家としての実践的な配慮がうかがえる。 Dをはじめとするプロジェクトのメンバーは、ネイバーフッド・カウンシルを結成する準備段階において地域の政治家、タウン・ホールのリーダーたち、異なる宗派の宗教関係者、商店主など、地域の有力者や地元住民の人脈つくりを周到に行い、その一方で集会や個別訪問をとおして住民に直接働きかけていった。しかし、プロジェクトが何よりも神経を使い強調したのは、住民が主体となる草の根の運動である。ネイバーフッド・カウンシルが結成されるとプロジェクトは、行政との交渉やカウンシルの運営状況を査定し、財政的な支援を行い、グローブ・ネイバーフッド・センターからのスタッフの相談にのったが、ネイバーフッド・カウンシルの活動には直接には携わらず見守ってきた。 住民にとってはハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトとグローブ・ネイバーフッド・カウンシルとは、区別がつきにくかった。プロジェクトの1974/75年の活動の報告書の草稿には、「ネイバーフッド・カウンシルとコミュニティ開発プロジェクトは狭い場所において協力して活動しているので、多くの住民はハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトが何であるか、どのようなメンバーがいるのかを認識していない。こうした状況は双方の組織の強みでありかつ弱点である」と記されている。プロジェクトの活動は、組織として住民に認識されないというジレンマをかかえながらも、「媒体ではあるが、主体ではない」という方針を貫く。グローブ・ネイバーフッド・カウンシルの活動が軌道にのり、行政からの支援をえてセンター運営の体制が整ったときに、ハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトは予定通りグローブでの活動を終了する。グローブ・ネイバーフッド・センターもこの時、場所を移動し新たなスタートを切った。 現在のセンターの関係者や住民たちがハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトについて記憶していないのは、人口移動率が高い地域において30年前を知る住民が転出、あるいは亡くなったからだけではない。プロジェクト・チームが、あくまでも住民たちを主役とした運動をすすめ後方支援に徹するという姿勢を貫いた結果でもある。コミュニティ開発のプロフェッショナルな活動家たちの運動の軌跡が、30年にわたるグローブ・ネイバーフッド・センターの存在とプロジェクトの忘却のなかに残されている。 |