modern american economy
3-2. ニクソンの登場と「新経済政策」
担当:甲南大学 稲田義久
黄金の60年代を演出した民主党のケネディ、ジョンソン大統領の後を引き継いだのは、共和党のニクソン大統領でした。実は、ニクソンは60年の大統領選挙戦でケネディに負けているのです。ニクソンはジョンソン大統領の後1969年1月に第37代アメリカ大統領に就任します。ニクソン大統領の業績として注目すべきは、73年8月にベトナム戦争の終結を宣言しました。また中国との国交を回復したのも注目されます。ただ74年8月8日にスキャンダル、ウォターゲート事件との関係で任期中に辞任を余儀なくされます。ニクソン大統領はこのスキャンダルのため議会から不名誉にも弾劾(impeachment)を受けました。ちなみに、議会から弾劾を受けた大統領は、アメリカ史上2人目です。任期途中で辞任した彼の後は、副大統領のフォードが引き継ぎます。
ニクソン大統領はこのように政治的に目立ち大変注目されましたが、彼の行った経済政策も大変ユニークでもっと注目されてよいものです。
3-2-1 ニクソン政権の「新経済政策」
ニクソン大統領は、1971年8月に「ニクソン声明」によって、ベトナム撤兵を打ち出すとともに、重要な「新経済政策」を発表しました。
さて「新経済政策」の骨子は、(1)金・ドル交換性の停止、(2)10%の輸入課徴金の賦課、(3)90日間の賃金・物価および地代・家賃の凍結からなります。(1)と(2)は悪化する貿易収支に関連し、(3)は高まるインフレを抑制するための政策です。
3-2-2 金・ドル交換性の停止
ドルは68年の「金の二重価格制」によって市場ではすでに形骸化しておりましたが、金の裏づけはこの時、金・ドル交換性の停止を宣言することにより公的にも失うことになります(
コラム:固定相場制とドル危機を参照)。
この後、71年12月のスミソニアン協定を通して、多角的為替相場調整によって固定為替相場制を維持しようと試みましたが、結局は多国間による為替調整は失敗に終わりました。72年以降、為替は変動相場制に移行します。
戦前の金本位制では為替レートを維持するために、国内の金融政策が大きく制約されました。これらの反省から、戦後のIMF=ドル体制ではIMF加盟国は一定の為替レートを維持することを求められますが、「基礎的不均衡」が生じた場合には平価を変更できることを認めています。しかし、貿易収支などの基礎的不均衡から平価の変更可能性が予想される場合は、その国の通貨は投機圧力にさらされます。投機操作により弱い通貨は切り下げに、強い通貨は切り上げに追い込まれます。平価を維持するためには、結局は、国内の金融政策が大きな影響を受けることに相違ないのです。ドル不信を背景に起こった通貨投機は、アメリカン・システムの要であるIMF=ドル体制を危機に陥れます。
逆に、変動相場制では為替相場の水準は市場で自由に決定されますから、原則として、金融政策には自由度が増しますから、経済政策的には好ましいはずです。しかし、その後の経験から変動相場制は必ずしも好ましい影響を経済に及ぼさない(為替のオーバーシュート)ことがわかってきました。
3-2-3 経済統制について
新経済政策で注目すべきは、(3)の90日間の賃金・物価および地代・家賃の凍結です。これは賃金・物価のスパイラルを政府の直接統制で抑制することを意図したもので、限定的とはいえ、戦時経済的な経済安定化措置が導入されたのです。
結論を先取りして言うと、経済統制は71年8月から4段階を経て続けられましたが、実効を得られず、結局は失敗に終わったのです。73年秋の第1次石油危機後のインフレの昂進(
コラム:石油危機の影響を参照)の中で、74年4月にエネルギー価格を除いて統制は終了したのです。
とはいうものの、当初は統制が極めて厳格で、最初の1年間は効果が大きかったのです。72年のインフレ率は3.2%となり、前年の4.4%より低下しました。しかし、71年12月のスミソニアン協定を通じた多国間の為替調整は失敗に終わり、72年以降主要通貨が相次いで変動相場制に移行しました。その結果、ドルは主要通貨に対して大きく切り下がったため、輸入物価は高騰し、アメリカのインフレは一段と悪化しました。
第2段階の統制(73年1月まで)の特徴は、「条件限定価格」方式でした。具体的には商品ごとに加重平均した価格引き上げ幅を売り上げの2%以内に抑制するというものであった。また賃金の引き上げ幅には8%の上限が設定されました。
しかし、73年1月に発表された統制措置は、半分自主性に任されたため統制効果は半減いたしました。加えて異常気象による農業生産の減少から農産物価格が高騰しました。
こうした事態に対して、ニクソン大統領は73年6月に、60日間の価格凍結宣言を発令し、8月には強制的価格統制方式に復帰しました。
一連の価格統制は74年4月に基本的に終了しますが、経済統制ではインフレ体質を押さえ込むことが不可能であることがわかってきたのです。下の図はアメリカ製造業における生産性、単位労働費用、実質賃金の伸びの推移をみたものです。74年に単位労働費用は前年の5.6%から11.4%に上昇しました。一方、実質時間当たりの賃金は不況でも減少することはありませんでした。単位労働費用は生産物単位あたりの賃金費用で、時間当たり賃金の伸びから労働生産性の伸びを引いたものです。同年の労働生産性はマイナスの伸びにもかかわらず、実質賃金は低下しませんでしたから単位労働費用はジャンプしていることがわかります。この背景では賃金が11.7%も上昇していたのです。70年代のアメリカには抜きがたいインフレ体質を垣間見ることが出来ます。
図3-2 製造業の生産性、単位労働費用、実質賃金(前年比:%)
3-2-4 戦後最大の不況
低廉な原油価格はアメリカ経済の持続的成長をもたらしていた条件の1つであったため、その崩壊はアメリカの企業体制を直撃しました。
第1に、エネルギー価格の高騰と生産コストの上昇は、もともとアメリカ経済が内包していた賃金・物価のインフレ・スパイラルの悪循環に火をつけました。生産物価格と投入物価格の価格比(相対価格)を激変させ、企業の収益性を急速に低下させたのです。企業は収益低下を回避するために生産物価格の引き上げを行い、労働組合は上昇した生計費をカバーするため賃上げに奔走します。これらはインフレ・スパイラルを悪化させるのです。
第2に、原油価格の高騰により、貿易収支の赤字化を通して購買力が非産油国から産油国に移転しました。移転した購買力(オイル・マネー)が非産油国へリサイクルすればよいのですが、短期的には世界の需要が収縮する結果となりました。
第3に、為替の固定相場制から変動相場制への移行は、当初期待されていた結果とは逆に、為替レートのオーバーシュート現象を引き起こしました。これは相対価格の激変とあいまって、企業の生産計画や消費者の将来見通しに対して不確実性を増幅させました。
この結果、アメリカの実質GDP成長率は74年に-0.6%、75年に-0.4%と2年連続のマイナス成長に陥りました。失業率は74年には前年の4.9%から5.6%へと、75年には8.5%にジャンプしました。消費者物価で見たインフレ率は、74年には前年の6.2%から11.0%へと上昇し、75年も9.1%と高いインフレ率を記録しました。この結果、悲惨度指数は74年には前年の11.1%から16.6%に上昇し、75年には17.6%へとさらに上昇しました。
注意すべきはアメリカでインフレ体質がこの間に定着してしまったことです。73年の第1次石油危機を契機にインフレが加速したのはほとんどすべての先進国に見られた現象ですが、アメリカの場合、石油危機の影響がほぼ出尽くした後もインフレが続いたことが大きな問題でした。