5-1-8 記録と資料化
Example 日々の暮らしをどのように記録するか
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日々の暮らしをどのように記録するか
フィールドワークでは、現地に長期間滞在することがあります。生活を体験することはできます。しかし、日々の暮らしを記録しようとすると、意外と難しいものです。バングラデシュでのフィールドワークにおいても、日々をどう記録するのか、最初は模索状態でした。
「見聞したことを書き留めるには、時間がかかった。記録として何が重要なのか、何が無駄かを判断する要領が掴めなかった。1つ1つの情報のどこまでが話し手の体験、目撃なのか、どこからが聞いた話、噂、迷信、作り話、解釈といったものかもはっきりしない。だが、 そもそも人々の暮らしが、事実にもとづく情報のみで構成されているわけではなく、質の異なる無数の情報によって織り成されている。住民たちが得る情報の量も質も、各人が抱く世界の広がりも一様ではない。だとすれば、調査者としての私は、人々の暮らしの何を記せばよいのか、考えると分からなくなった。とりあえず、気がついたことは、できるだけ省略せずに書き留めることにした。」
西川麦子『バングラデシュ/生存と関係のフィールドワーク』平凡社、2001
「二章情報が織り成す世界/何を記録するのか」pp.54-55 より
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個人の日記と手紙
就寝前にランプの明かりのもとで、とりとめない日常を日記や手紙に書いた。日記は、私自身の生活を軸に起床から就寝までを時刻を追って記した。落ち込んでいる時には、日記を書かなかった。自己嫌悪が増すばかりで苦痛だった。日本にいる友人や家族への手紙は、楽しんで書く事が多かった。手紙を受け取ってくれる人が存在することが、あらゆる場面において私を支えた。遠くに暮らす読み手に伝えたいがゆえに、バングラデシュでの生活について、具体的な状況や些細な細部を記した。便箋に綴る場合はすべてカーボン紙をはさんだ。宛名の異なる「日本への手紙」の写しが、差出人の手元に何百枚もたまっていった。p.55
情報カード(現場での記録)、フィールドノート(パソコンで文章入力)
日中調べたことは、その場では帳面に走り書きをして、部屋に戻ってからB6版のカードに記録した。調査年月日、場所、話を聞いた人の名前、カードの項目名などの基本事項の他には、1枚のカードには1つの内容のみを記した。
1990年7月までに記録した「情報カード」は、その後の半年間、日本に帰国した間に整理して、事件、個人史、儀礼、婚姻、家族計画、開発、物乞、といった大きな項目ごとに、ある程度のまとまりのある文章にまとめ、パソコンに日本語で入力した。これを、本書では「フィールドノート」と呼んでいる。p.58
村日誌(記録者村人、ベンガル語) 住民が記す村日誌を始めたいと思ったのは、私ではなく彼らの、外部からではなく内部の視点からの、より広い情報を得ることができればと考えたからだ。ジンダ村に住み始めて2日めに、ダッカから付き添ってくれたモミンに「村日誌のようなものをつけたいのだが、誰か村の1日の出来事を書いてくれる人がいるだろうか」と相談した。彼は弟のヨシトにこの仕事を命じた。ヨシトは、「村のジャーナリスだ」と称してはりきって記録を始めた。内容については、私から細かくは注文をつけなかった。まずは、彼が何をニュースとして選ぶかを見ることにした。
1988年12月24日、ヨシトが書いた第1日めの日誌は、冬の朝、寒くて村人が朝日にあたって暖をとっていたという話から始まっていた。ジャーナリストとしての初仕事の書き出しに、彼がこの何気ない日々の情景を選んだことに私は意表をつかれた。pp.64-65
村日誌は、1988年12月24日から1991年5月7日までの毎日、ほとんど欠かさず記された。ヨシトが、学校の行き帰りや、従兄弟たちと村やバザールで散歩した時に、あるいは家族と話しながら、見たり、聞いたり、気づいたその日の出来事や、時には自分で調べたことを書き留めた。ヨシトが不在の時は、ミニや同じバリに住む従兄弟たちが記した。A5版の大学ノートの左ページに彼らがベンガル語で記述し、右ページに日本語に翻訳した。2年4ヶ月、20冊のノートが残った。p.66
私は、その日の夜、あるいは翌日、時にはまとめて後日、日誌を読み、ヨシトと疑問点や感想を話し合い、新たな情報も加えて日本語に書き直した。・・・・20冊の村日誌は全て、日本語に翻訳して帰国後にパソコンに入力した。その際に、日誌の記事に項目をつけ、人名を記号化して付記するなど、資料として目的に応じて情報を抽出しやすいように編集した。日誌は、平均すると1日700字程度である。pp.67-68
帰国後に編集された一連の記録となった「村日誌」を読むと、断片的な1日1日の記述が全体を織り成す糸であったことに改めて気づく。日誌の中では数行に要約された記事も、その背景にある長年の人間関係を後から知り、なるほどな、と納得がゆくこともある。村日誌は、角度を変えて読み直すたびに新しい細部を発見するテキストである。p.71
スケッチ
「何でウチに来ないのか」と言われるので、最初の2ヶ月はどの家へもまんべんなく訪ねた。 各バリ(屋敷地)の家の配置や家屋を スケッチし、世帯員の構成や親族関係、所有する土地の面積や職業など、各世帯に同じような質問をした。(pp.55-56) 何かをスケッチした場合も、後で無地のB6版のカードに描き直し、記録年月日や絵や図版の内容についての解説をつけた。たとえばジンダ村の家屋の絵であれば、カードの右下に世帯番号などを付記した。(p.58)
距離をうつす写真、媒体としてのカメラ
ひとつの盗難が厄介な騒動を繰り広げているあいだ、人とは話辛く、村を見て歩く時間が増えた。いつもカメラを携えた。それまであまり写真をとらなかった。とくにバザールなど人が大勢いるところでは、逃げ腰になり焦点が合わなかった。しかし、事件後は、カメラがある方がかえって、人と人との間の気まずさを和らげてくれた。この時期の写真にうつっていたのは、レンズを通して目を合わせたような子どもの表情や、日だまりのなかの水浴びや、子に乳を飲ませながら食事の準備に忙しい母親の姿など、普段の暮らしの風景だった。(p.248)
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