調査に「かたち」を与える
2002年、グローブ・ネイバーフッド・センターへの漠然とした関心からこの調査は始まった。試行錯誤のひとつのひとつの作業をつなげ情報を組み立ててゆくプロセスは、意識しなければ気づかなかったさまざまな発見があった。しかしながら、こうした問題発見型のフィールドワークは、周囲の人々にとっては調査者がいったい何をしているのか分かりにくい。探索とは具体的な行為の集積ではあるが、その全体像には必ずしも輪郭がない。だからこそ、フィールドワークは具体的な「かたち」にしてゆかないとなかなか伝わらない。2004年8月、調査を始めて3度目のロンドン滞在である。今年は、調査研究への助成金*をえることができた。旅費、滞在費、その他の調査費用など、フィールドワークに資金は不可欠である。今回は、してみたいことがあった。英文の報告書を作成し、ハマースミスの知人、友人たちに読んでもらいたい。
*科学研究費補助金、基盤研究C「都市空間における地域コミュニティ形成の可能性についての文化人類学的研究」(2004年度−2007年度) 報告書を作成する
訪英前の7月中旬、論文「ロンドン、ハマースミスにおける1970年代のコミュニティ開発の実験的試み」(甲南大学紀要、文学編131社会科学特集、2004年)の英訳が届いた。ニュージランドの大学を卒業した庄司早春さんに翻訳をお願いした。表紙を考えた。初夏の青い空のもと交差点の角にあるセンターの建物のカラー写真、裏には同じ場所にある30年前のプレハブの建物の白黒写真。透明のクリアファイルに原稿を挟み、表紙の写真の空と同じ真っ青な水色のテープを背表紙にして、社会調査工房にある製本機で綴じた。25部の原稿のコピーと製本、アルバイト1名に手伝ってもらい1日作業だった。CD-Rにコピーするほうが時間も費用もかからない。しかし、紙の冊子にはそれなりの味がある。受け取ったときの質感も報告書を渡すうえでの大切な要素である。
直接に問いかける
今回の試みは、お世話になった人に調査について報告をするだけでない。関係者からの反応を知り、そこから調査を展開させてゆきたい、という意図がある。論文では、1970年代のハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトの活動について詳細を述べ、現在のグローブ・ネイバーフッド・センターが設立されるまでの経緯を説明している。(1970年代の都市のコミュニティ開発プロジェクトの実験的試み[5-2-8])論文で扱っているのは、30年以上前の過去の出来事であるが、現在のグローブ・ネイバーフッド・センターの関係者や地域住民への問いかけともなっている。日本語論文の「はじめに」にこう記している。
〜現在への問いかけ〜(西川 2004 p.81)
「筆者が注目するのは、ある時代の熱気を帯びたプロジェクトの内容だけではない。それが30年後の現在、人々の記憶にとどまることなく忘れ去られているということである。」 「(センター設立30周年の)記念行事が行われた形跡はなく、センターの30年の歩みなるものも発行されていない。」「住民の住民のためのコミュニティ・センターとして、先人たちが苦労して資金、場所をえてセンターを建て、紆余曲折をへてセンターを運営してきたというのに、センターのスタッフも運営委員も利用者も、センターの設立に際しての事情や今日に至るまでの経緯、歴史に関心がない。そもそもセンターの活動を支えるまとまりをもった地域やローカル・コミュニティとよばれるものが存在するのだろうか」 渡し方も調査のうち
2004年8月4日、ロンドン到着、9月11日までの滞在である。まずは食品や日用雑貨をそろえ、センターへ挨拶し友人を訪ねハマースミスと人々の近況を少しずつ感じ取りながら、報告書を渡したい人それぞれに手紙を書く。手紙やメールや電話や、直接会って、どのようなメッセージを伝え、どのようにして報告書を渡し、取材を申し込むのか。報告書についての感想を聴きたいが、まずは報告書を読んでもらう時間が必要である。しかし、私の滞在期間は限られている。
〜限られた時間〜(2004年8月10日の日記より抜粋)
午前中、メイソン氏に手紙を書くので時間いっぱい。手紙を書くだけで1週間がすぎてしまう。手紙を書いてアプローチすること、それ自体がリサーチの一環だと思いつつも、遅々とした自分の仕事ぶりにあきれる。日記もいつも追いつかない。書く内容を減らせばいいのだが、それもできない。しょうもない日常は、日常のなかでしか書くことができず消えてしまう。ロンドン滞在という非日常を、日常のなかで捉える贅沢というものに固執してしまう。
インタビューを始めたのは8月後半になってからである。帰国までには、グローブ・ネイバーフッド・センターの関係者、30年前のプロジェクトの関係者、地域住民、アーカイブのスタッフなど10数名の方から話を伺った。1回のインタビューは、基本的には1時間を想定しているが、2,3時間におよんでしまうこともある。話の内容は、報告書についてのコメントをきっかけに、あるいはそれとは別に、グローブ・ネイバーフッド・センターについて、地域の変容について、個々人の暮らしについて、など人によってさまざまである。話の続きがあるときは、別の日を設定することもある。
さまざまな「ずれ」
10人に話を聴くと、その内容は10人とも異なる。一見、とりとめない情報が集まる。だが、今回は、ひとつの同じテキストをインタビューの材料としている。これにたいする複数の人の声を聞くことによって、事実がより明確になる、というよりもむしろ、それぞれの人による微妙なずれが見えてきた。同じ事柄について住民の記憶や印象が異なっていたり、住民のあいだでの意見がなんだか違う。
グローブ・ネイバーフッド・カウンシルやセンターの設立に関わったり、地域の変化を体験してきた住民は、それぞれの記憶と報告書の記述内容のずれを指摘する。たとえば、「1970年代グローブはロンドンでも最貧困区の1つだった」、のか?ある人は、そうした記述を不思議そうに眺める。グローブが貧しいという印象はなかったなあ、と呟く。ある人は、グローブの住民たちがどんなに劣悪な住環境のなかで生活していたかを強調し、だからといって地域社会がなかったのではない、いろいろな住民組織が活動していたと話す。ある人は、各世帯にトイレがなく屋外の共同便所を使用し、バスルームがなかった頃の暮らしの細部を話す。
現在のグローブ・ネイバーフッド・センターの関係者にとっては、この報告書は、小さな驚きだった。センターが設立された経緯など、誰も知らない。「そうだったのか」という静かな反響。しかし、「だからどうなんだ」という問いは、レポートの著者である私にではなく、彼ら自身に向けられる。過去にふれることで現在を意識させられる。ところが、報告書にはセンターの現状についての分析や将来を明示する言葉はない。「今のセンターについては、MUGIKOのほうがよく知っているだろ」と言葉を控える人もいれば、「日本人は歴史が好きなのね」、「忙しすぎて過去をふりかえっている時間なんかないなあ」という人もいる。それでも1時間話すと、現在のセンターや地域の変化について、その人のなかでまだ明確にはなっていない思いが言葉となってでてくる。関係者のあいだではむしろ議論を避けてきた、グローブ・ネイバーフッド・センターの現状やこれからについての意見の相違が垣間見えてくる。
「今」「ここ」の見方/視点のクリーニング
地域の歴史に関心がある人は、ハマースミスの何世紀にわたる地域史を説明する。かつてロンドンのサバーブであり、19世紀になって労働者の街となっていく。労働者の質素な小規模な住宅が、今では、都心で働く経済的に豊かな単身者や小規模な世帯の住宅となっている。地域の歴史、産業、人口、世帯の変化などの多面的な視点をもち、郊外や都心など他の地域との関係から、「今」「ここ」を見ることを人々は教えてくれる。その時々の政治体制や政策を抜きにして地域も社会も語れないよ、とさりげなく厳しい批判も受けた。これから勉強しなくてはならないことが山積する。
かくして調査は、収拾がつかなくなる。だが、漠然とした関心から調査を始めた頃の出発点とは確実に異なる。情報の多様性や立場の違いによる意見や記憶のずれにふれることは、何かを具体的に考える多くのヒントを含み、調査者自身の視点をしばしば洗い直してくれる。
余地を残す
5-3に、報告書の英語版“The Grove Neighbourhood Center in Hammersmith, London: Successful
Achievement of Forgotten Urban Community Development in the 1970s”を掲載した。修正、事実関係の誤りの訂正、注などでの補足説明を加えているが、最初のテキストと内容は変えていない。さまざまなコメントを、ここにまとめて加筆してゆくことは難しい。決定稿ではなく、内容の「ぶれ」や問いかけの余地を残しておきたい。テキスト以外には、いくつかのドキュメントやセンターの写真、グラフなどの視覚的資料も加えた。許可をえて、30年前にハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトを始めたD・メイソン氏の写真と短い音声をそえた。ロンドンからもアクセスでき(もちろん他の地域からも)、地元住民にとっても何らかの発見があり、資料を共有できるフィールドワークの報告になればと思う。
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