何かを探り始めたときに、最初からそれを説明することができる言葉を自分がもっているとは限らない。漠然とした関心に動かされて情報を収集し、多種多様な具体的な資料と向き合い、ばらばらに存在していた雑多な情報を組み合わせているとき、自分が行おうとしていることのかたちや考えるヒントが見えてくることがある。フィールドワークとは資料を集める現場のみをさすのではなく、記録し整理し、それらと向き合い、誰かに何かを伝えようと試みる、そのプロセスの繰り返しを意味する。混沌と発見と遭遇と対話を重ねながら思考する営み全体のことである。
さまざまな種類の情報がどのように関連し調査研究の流れが見えてくるのか。以下に記すのは、グローブ・ネイバーフッド・センターについてのロンドンでの情報収集のプロセスではなく、日本において、さまざまな種類の文献、資料、インタビュー記録、写真、ビデオ、私の参与観察の記録、日記、などの調査記録を眺め、組み合わせ、いろいろな疑問を再考しながら気がついた問題や、それらについて考えた筋道である。 グローブ・ネイバーフッド・センターに関する調査の小括の事例―2003年12月
グローブ・ネイバーフッド・センターがローカル・コミュニティの住民の福利の推進をめざし地域に根ざした活動を展開している。にもかかわらず、センターの活動を支える地域社会や、コミュニティ精神といったものが見いだせない、という印象を受ける。
[いろいろな疑問について手元にある資料を参考にしながら、じっくりと考えてみる。]
グローブ・ネイバーフッド・カウンシル発足の経緯について調べる
グローブ・ネイバーフッド・カウンシルは、地域における従来の住民組織のかたちを継承した、あるいは住民の発想にもとづいて自発的に結成された組織ではない。1970年代初め都市貧困問題委員会という地域外部に拠点をおくNPOが、ハマースミスにおいてコミュニティ開発プロジェクトをたちあげ、グロープ区をプロジェクトの対象地域に選び、戦略的に住民にはたらきかけてネイバーフッド・カウンシルを結成した。 [1970年当時に作成されたプロジェクトに関する書類、報告書などを読む。]
[ドキュメント調査だけでなくプロジェクトの関係者へのインタビューの内容を組み合わせる]
ハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトの代表者D(Revd. David Mason)と会うまでの経緯
ハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトの理念と戦略
プロジェクトの代表者であったDがめざしたコミュニティ開発とは、対面的な社会関係が成立しうる程度の小規模な地域に住民組織をつくり、生活のなかの身近な事柄を住民自らが問題化しその改善に取り組む草の根の運動である。既存の地域社会や住民グループに依拠するのではなく、ネイバーフッド・カウンシルの結成と運営という活動をとおして住民たちのなかから地域へのアイデンティティを生み出してゆくことが、彼らが都市部で試みた運動としてのコミュニティ開発の特徴である。 Dをはじめとしたハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトのメンバーは、ネイバーフッド・カウンシルを結成する準備段階において地域の政治家、タウン・ホールのリーダーたち、異なる宗派の宗教関係者、商店主など、地域の有力者や地元住民の人脈つくりを周到に行い、その一方で集会や個別訪問をとおして住民に直接働きかけた。しかし、プロジェクトが何よりも神経を使い強調したのは、住民が主体となる草の根の運動である。ネイバーフッド・カウンシルが結成された後は、プロジェクトは行政との交渉や財政的な支援を行い、グローブ・ネイバーフッド・センターのスタッフからの相談にのったが、ネイバーフッド・カウンシルの活動には直接には携わらず見守ってきた。プロジェクトの組織、活動自体は住民に認識されないというジレンマをかかえながらも、「媒体ではあるが、主体ではない」という方針を貫く。グローブ・ネイバーフッド・カウンシルの活動が軌道にのり、行政からの支援を受けセンター運営の体制が整うと、プロジェクトは予定通りグローブでの活動を終了する。 現在のグローブ・ネイバーフッド・センターの関係者や住民たちがハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトについて記憶していないのは、人口移動率が高い地域において30年前を知る住民が転出したり亡くなったからだけではない。プロジェクト・チームが、あくまでも住民たちを主役とした運動をすすめ後方支援に徹するという姿勢を貫いた結果でもある。コミュニティ開発のプロフェッショナルな活動家たちの運動の軌跡が、30年にわたるグローブ・ネイバーフッド・センターの存在とプロジェクトの忘却のなかに残されている。
グローブにおけるネイバーフッド・カウシンルの発足は、確たるローカル・コミュニティが存在しない地域にネイバーフッド・カウンシルをつくり運動をとおして住民の地域へのアイデンティティを生み出す、という1970年代の都市におけるコミュニティ開発プロジェクトの先駆的な試みであった。その後の80年代、90年代のグローブ・ネイバーフッド・センターは、場所を獲得し、センターの建物を新築、増築し目に見えるかたちで発展し、センターを中心とした活動を展開してきた。その一方で、70年代から80年代にかけてグローブ区の住民が広く参加していた夏のカーニバルは行われなくなった。区の全世帯に配布していた広報誌『ネイバーズ W6』も90年代半ばに発行を停止した。グローブ・ネイバーフッド・カウンシルの立候補者は減少し90年代以降定員を割る事態が続いている。今日のグローブ・ネイバーフッド・カウンシルの機能はセンターの管理、運営が中心となり、当初のようなグローブ区の住民の声を代弁し、地区を代表する住民組織として地方自治体と交渉してゆくという側面は弱くなっている。カウンシルが、30年のあいだにどのような変遷をとげたのか、今後、コミュニティ・センターとして、住民組織として、どのような方向に向かってゆくのか、これからの調査研究のなかで明らかにしてゆきたい。
また、ロンドンのどこにでもある典型的な都市の貧困区であったグローブが、いまやミドルクラスに人気がある住宅地となり住民層も変化した。Dがインタビューのなかで語った住民のグローブ区へのアイデンティティは、カウンシル発足という地域を巻き込んだ一大イベントのなかで生まれた。しかし、アイデンティティを維持しコミュニティ意識を醸成するために、人々の心をつかみ続けるさらなる仕組みが必要である。グローブ・ネイバーフッド・センターの活動は、住民の地域にたいする意識をどのように育むことができたのであろうか。 筆者が住民としてグローブ・ネイバーフッド・センターに関わってきた参与観察の範囲のなかでの印象を述べるならば、現在のセンターは地域の住民をつなぐ3つの側面をもつ。1つは、諸イベントや多種多様な教室活動をとおしてはっきりとした境界をもたないより広い意味での地域の人々が交流し、個々人がもつネットワークをつなげてゆく。もう1つは、さまざまなヒーリングやカウンセリングに関する活動を行う場として住民たちがセンターの空間を利用し、家族や特定の集団、住縁関係とは異なる関係のなかで、しかし人とかかわりながら個人のより内面的な問題に向き合う場所となっている。3つめは、グローブ善隣プロジェクトの活動をとおして生活支援を求めるクライアントと、ボランティア活動をしながら人との関わりをもちたいと考える住民とを組み合わせ、地域に暮らす見知らぬ個人と個人が生活のなかで関係してゆくという仕組みをつくることである。 今日のセンターが生み出すこうした人と人との関わり方は、ハマースミス・コミュニティ開発プロジェクトが30年前に試みた地区へのアイデンティティつくりや、ネイバーフッド・カウンシルが規程に盛り込んだコミュニティ精神やローカル・コミュニティという用語が意味する、特定の地理的範囲を想定したコミュニティでの社会関係とは性格を異にするのではないか。この点も、今後、考察してゆきたい。 住民が頻繁に入れ替わる都市空間において、地理的な領域へのアイデンティティや特定の集団への帰属意識に依拠せずに、その場所に暮らす人々が互いにどのように関わりあうことができるのか、グローブ・ネイバーフッド・センターをとおした地域社会の研究は、ロンドンに限らず日本を含むさまざまな都市における人と人との関係を考えるうえで興味深い。
西川麦子、「ロンドン、ハマースミスにおける1970年代のコミュニティ開発の実験的試み―忘れられたプロジェクトの成功―」『甲南大学紀要 文学編131 社会科学特集』2004 所収 |